蜂 蜜 檸 檬
は ち み つ  れ も ん












空は今にも落ちてきそうなほど、重苦しく、黒い雲で覆われている。
マフラーを巻いた首元だけは冷たい風を通さないけれど、むき出しの手は震えるほどかじかむ。
俺は気持ち足早に(本当はこんなところ彼女に見られたら敵わないけど)白く塗りたてられた壁の新築のアパートへと身を滑り込ませた。
アパートの内部の階段を今度は気持ちが落ち着くようにゆっくり昇る。そして、一つのドアの前に立つと、ほぼ感覚も無くなった指でチャイムを押した。
約束の時間、3分前か。
ふと、腕時計を見る間に、薄くドアの向こうから返事が聞こえる。俺はドアが開くのを待った。

さんは5つ年上の大学生。”近所のお姉さん”だったさんのことが好きだと自覚したのは確か小学4年生ぐらいのことだったと思う。
きっかけはもう忘れた。今更覚えていてもどっちでも良いことであろうし。
その頃はもうさんは丁度今の俺の歳だったんだ。そう思うと何だか不思議な感じも、する。
その時からずっとさんのことを好きでいて、5年。やっとここ最近、男と女というような付き合い方になったところなのだ。
さんが俺のことをどう思っているのかは気にならない訳でもなかったが、しばらくは俺ばかりが好きだと言っていたのにさんが始めて応えてくれたのが、先月の初め。
そして、今日はさんが大学の近くで一人で暮らすアパートへと初めて招かれたのだ。
何だか妙に緊張してしまうのは、何故だろうか。

勢いよく、ドアは開いた。
「寒かったでしょ。早く入ってあったまんなよ」
さんの笑顔と、肩から滑る真っ直ぐな髪を目の前にし、俺は寒さも一瞬忘れた。
会えたのが嬉しくて、身体の外側に、中からほとばしるように熱さが出たようだった。
「お邪魔します」
「はーい」
その熱は緊張もすぐにほぐしてくれた。
第一、幼馴染でもある俺たちなのだから、そういったものはすぐに消えてなくなるのだけれど、俺は会うまでのその緊張感が少し、好きだ。
「コタツ入って座ってて。今あったかいもの淹れるから」
「うん、ありがとう」
マフラーを取りながら、俺はコタツへ足を入れる。取ったマフラーとカバンを側へ放って、しばしさんの慌しく動く様を見ていた。
そのままさんは俺のいるコタツとテレビとベッドでいっぱいになっている部屋から、小さなキッチンへ動いた。
とは言っても、大学生の住むアパートなのだから、動く距離は僅かなものだ。すぐ、側にいる。二人用程度のダイニングテーブルを挟んでさんの姿はよく見えた。
さんは、昔っから何をするにも何だか慌てているみたいに見える。
本人にとってはそんなことは無いらしいのだが、カップ一つ棚から出すのも危なっかしいようで、年上なのに、そういうところが可愛らしいと思うのだ。
それをこの前さんに言ったら叩かれたので心の中だけで思っておくけれど。
でも、そうして動くたびに揺れる、肩の下までの艶やかな髪も好きだ。
色はこの前アプリコットショコラとやらに染めたのだとさんが嬉しげに話していたけれど、俺は真っ黒なままのその髪が、好きだったのだ。
まぁ、今の色も可愛らしいから良いけれど。
さん」
「ん?」
「髪触らせて」
「ええ?何いきなり」
俺のその突然の申し出に、さんはマグカップを持ったまま、笑いながら言った。
「何かこの前結人くんも同じようなこと言ってたねー」
”この前”、”結人”?
俺は突然のその言葉に自然と嫉妬心が煽られ、顔が強張るのが分かった。
前にさんが俺の家に遊びにきたときのことだろうか。結人と一馬も丁度遊びにきて鉢合わせになったときがあった。
その時に、結人は俺の見ていないところでそんなこと言っていたのか。
いくら結人の趣味がヘアメイクだろうが、腹が立つものは立つ。
それもあいつらは、さんが俺の彼女だということを知らないからだろうけれど…。それにしたって面白くない。
さんは何でも無さそうな顔をしながら「私の髪の毛って痛みにくいから?」とか何とか言っている。
そんなのどうでも良い。
俺はそのモヤモヤとした感情を外には出さずに黙ってコタツへ手を入れていた。
冷たかった指先が、今では逆に熱を帯びたように熱いのだけれど、俺はコタツの中にそれを隠した。
それぐらい、きっと結人にもさんにも何でも無いようなことなんだろう。
俺は自分の子供っぽさに何となく、落ち込む気持ちをひとつ抱いた。
「はい。あったまるよ」
うつむく俺の目の前にさんの細い手が伸びて、マグカップを軽く置いた。
それからはほのかに柑橘類の香りが柔らかく鼻を刺激させ、俺は懐かしさに少し目を細める。
「コレ…さんのお母さんがよく淹れてくれた」
マグカップに手を伸ばし、中を覗くとやはり、それは透明な優しい飲み物。
「うん、はちみつレモン。懐かしいでしょ。私も冬になると飲みたくなるんだー」
さんは俺の座る斜め向かいに腰を下ろし、同じ柄のマグカップを傾けた。
俺はそれを見ながら、同じくはちみつレモンを頂く。
「…うん。おいしい」
「でしょ」
思わず顔を見合わせて微笑み合うと、さっきまで抱いていた重たい感情はすっかり溶けたかのように、心の中も温まっていた。
「で、髪の毛触るんでしょ?やっぱりこの色、いい?」
さんは、にこにこと笑いながら俺のほうに頭を突き出してきた。
俺は多少面食らいながらも、嬉しくてつい頬を緩ませる。
「…俺は黒の方が好きだけどね」
髪の毛に触れる。
コシがあって、でもチクチクしない。まるでさん本人のような髪。
柔らかい訳じゃないけれど、固くはない。
触れるとさらさらと音を立てて、流れるのだ。
さんは俺に頭を撫でられながら、徐々に頭の位置を下げ、俺にひざまくらされる格好になっていた。
「うーん…気持ちいい」
これだから、さんのこと、好きなんだよな。
俺は笑いを噛み殺しながら、黙って頭を撫で続けた。


















すんごく英士に好かれてるヒロイン。
はちみつレモンはうちの祖母もよく作ってくれました。
何だか久々に飲みたいよー。





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