夕日が差し込み、少し左肩が熱い。
けれども、気にはならない。
俺はピアノを弾き続けた。
あの人を呼び込むように、俺は弾き続けた。
そして、遠慮がちに開かれる扉の音が聞こえる。
俺は振り向かない。誰が入ってきたのかは、解っているから。













 
a  c o m m o d o 【ア・コンモド】
















あの人を初めに知ったのは、四月の初めの音楽の授業だった。
彼女は新任の音楽教師で、大学を出て、これが人生で初めての仕事だという。
ほやほやの新人教師という訳だった。
俺が通うのは私立の学校なのだから、そういう教師は多いのだろう。
始業式のときにそういった教師が2,3人はいた気がする。
彼女は少し緊張を浮かべた笑顔で教室を見渡していた。
ふわふわと揺れるハチミツ色をした髪の毛に、初々しさを感じさせる桜色のスーツを着込んだ彼女は「教師」というよりも、まだまだ若く可愛らしい印象さえ受ける。
顔も俺たちとそう、さして変わらない年齢に思える。大学を出たばかりだというのだから、事実そうなんだろうけども。
それ故に、少しやんちゃ、というような男の格好の餌食ではあったのだろう。
それは男クラスの洗礼ともいうのかもしれない。

「それじゃあ、自己紹介は終わります。何か質問はある?」
と彼女が言うのをきっかけに、始まる。

「せんせー!処女?」
「処女なら俺がせんせーたべちゃうよー!」

ばかばかしいヤツらの笑い声が響く教室の中、彼女は意外にも怯むことなく、

「私、高校生の彼氏作るつもりは無いよ?」

とにっこりかわしたのだ。

俺は窓の外を眺めながらそれを背中に聞いていたが、はっとして教卓を向いてしまう程であった。
確か、去年の現国の教師はぶちギレして顔を真っ赤にして口早に授業を終えて去っていったというのに。

それはヤツらにとっても意外な反応だったらしく、皆ぽかん、としていた。

彼女は笑顔のままで、
「質問、他に無かったら、今度はみんなの自己紹介の番ですよー」
と時を進めていた。

俺は何だかおかしくなって、声を潜めて笑った。
後ろに座る誠二が「何笑ってんのタク」と背中をつつくけれど、治まることはなかった。



先生、おもしれーな。あんな返しするようには見えねぇし」
休み時間、誠二がそう言うと、周りに集まったやんちゃなヤツらは口をとがらせて反発した。
「つうか、ああいうってことは、あの女、案外経験豊富じゃね?ヤリマン?」
「あんな可愛い顔してなー」
誠二は、言う。
「でも、お前ら先生のこと、結構気にいってんだろー。可愛いし」
途端、ヤツらは焦り出す。
俺はまたおかしくなってしまった。
多分、あの教師はこんなこと言われていても別に平気そうだな、なんて。
それを見越したのか、誠二は俺を指差し、言う。
「タクなんて、あんとき笑いこらえてやんの。そんな竹巳のほうがおかしいし」
誠二の言うことにどっと周りが沸く。
巻き込むな、とばかりに、俺は席を立った。




高等部にあがり、俺はサッカー部を続けていたが、単なる部活として打ち込む程だった。
中学のときのように、熱くなれないのは、なぜだろう…。
渋沢先輩と誠二は既にプロ入りを果たし、夢を叶えている。
三上先輩もそれに続け、というように必死に練習を重ねている。
俺だけが中途半端のような気がする。
俺はサッカーで将来食っていく気は無かったし、かといってこれといった夢も無い。
そんな俺があの人らにくっついていていいのか分からずに、俺は部活にも校内にも居場所が無いような気さえしていた。
部活が終わって、寮に帰る気にはなれずに、ぶらりと唯一の趣味であるピアノを弾きに行くようになっていた。

音楽室のある3階へ上ると、合唱部の声が聞こえる。
彼らが練習している第一音楽室から離れた校舎の端にある第二音楽室の扉に手をかけると、そこは鍵もかかっておらず、俺は自由にピアノを弾いていた。
気の向くままに好きな音楽を好きなだけ弾いて、帰る。
こういうふうに俺は多少の苛立ちを鍵盤にぶつけることで自分を保ち、日々を過ごしていた。

その日もいつものように俺はピアノを弾くことに熱中していた。
そして、突然のガッシャンという大きな音に驚いて手を止めたのだ。

「ご、ごめん。驚かせちゃったよね?ごめんね。続けて続けて!」
、先生」

振り向くと、そこには椅子か机につまづいたのかうずくまる彼女がいた。
なかなか俯いたまま動かない教師の姿に俺は恐る恐る声を発する。
「…大丈夫ですか」
「う、うん。結構痛かったけど、平気だから。気にしないで」
そこで顔を上げて先生はにっこりと笑った。

俺はまさか彼女の言うようにそのまま続きを弾く気にはなれなかった。
もう、帰ろう。
そう思い、鞄を手にした。
「あれ、帰るの?」
「ええ」
彼女は慌てて落した教材を拾い始めていた。
俺はそれを見ながら無視することもできないので、手伝おうと彼女に近づき、しゃがみこむ。
「ごめんね。ありがと」
「いえ」
拾ったプリントを手渡し、踵を返そうとした俺に彼女は声をかけた。
「いつもここでピアノ弾いてるの、笠井くんよね?」
お咎めか、と俺は気分が落ち込むのを感じながら横顔で応答する。
「はい。勝手に入ってすみませんでした」
彼女は大きく首を振る。
「ううん、違うの。別に怒ってないし。むしろ、いい」
むしろ、いい?
彼女の言葉を俺は捉えかねて、首を少し傾げた。
彼女はそんな俺を見て、軽く笑った。
「私ね、いつも合唱部の練習のあと、ここ通るんだけど、うまいなーって思って聴いてたの。
 笠井くんだったのね。意外!」
俺はそんなこと言われるとは思ってもみなかったし、その言葉に何だか恥ずかしくもなって、どんな反応して良いものか、困ってしまった。
そんな俺を見て、彼女は続ける。
「でも、何か、何かね、焦ってるみたいな。いや、違ったらごめんね。そんな感じした」
俺は顔を上げ、そして、彼女の顔をまっすぐに見据えた。
どうしてそう言おうと思ったのか、解らないけれど、俺の口は勝手に動いていた。
「多分、その通りなんです」
彼女の目を見た瞬間、きっと言葉がこぼれたんだと思う。
柔らかく、微笑んで、何か、俺のモヤモヤした悩み、と言うのかも分からないようなものを聞いてくれるもんだと、そう思ったんだ。
実際、彼女はその通りだった。
「お茶、飲む?」

音楽準備室と名のつく部屋に通されると、その部屋の半分は楽器や教材となるボードなどが混在しており、そのもう半分に二つの事務机と小さなソファがあった。
ソファに座ると間も無くして、日本茶を出された。
香ばしい良い香りがふわっと顔にぶつかる。
彼女は自分のものであろう事務机の椅子を引いて、そこへ腰掛けた。
ふわふわした髪の毛とふわふわした素材のスカートが同時に揺れるのを見ながら、俺は口を開く。
彼女は身体をこちらに向けながら、湯飲みを持ち、黙って俺の言葉を聞いていた。
「夢が、どこかに行ってしまったような。そんな気がするんです」
「どこかに?」
「…初めは漠然と、サッカー選手になりたかった。けれど、俺には誠二や渋沢先輩のような才能も、三上先輩のように努力をすることもできなくて。
 で、気づいたんです。俺はサッカー選手になりたいとは、本気で思っていないんだ、って」
俺はするすると引きずり出される自分の言葉に驚いていた。
なぜ、この人にこんなに素直に話しているのかがすごく解らない。
けれども、この人は真剣に聞いてくれている
そのことがひどく心地よくて、俺はいつになくすんなりと話される自分に戸惑いながらも話し続けた。
彼女は笑いもせず、ただ、口元に微笑は残したまま最後まで俺の言葉を聞いてくれた。

「そう。だから、音が焦ってたんだ」
「そう、聞こえたのなら、そうなのかもしれませんね」
彼女は飲み終えたのか、湯飲みを机に置くと、黙って立ち上がり、俺の座る向かい側に腰掛けた。
その一連の動作を見ながら、俺は彼女の言葉を待つ。
「別に、焦らなくても、良いと思うんだけど」
「はぁ」
当然のように彼女はそう言った。
俺も、そうは思うのだ。分かっているのだけれど、このままサッカーを続けていくことにきっと疑問を投げかけている。
サッカーというスポーツは、実はやれる時間が少ない、と言われる。
そうだ。もしプロを目指すとしたら、このままで良い訳はない。
「それは、分かるんですけど」
「そうよね。でも、私だってずうっと先生になりたかった訳じゃないのよ」
座って、目線が同じくらいの位置になった彼女の顔を見つめた。
思った以上に顔が近いことに気づき、少し戸惑う。
「私も、実はね、音楽業界の人間になりたかったの。プロのピアニストに」
じゃあ、俺の境遇と似てる、と言うことなのだろうか。
「でも、笠井くんとおんなじ。…違うかな。ちょっと楽なほうに逃げたのかもしれない」
「…」
「私は、もう結果を出してしまった訳だけど、笠井くんはまだまだ選べるもん、おんなじじゃないね。もっと、ゆっくりでも良いんじゃない?
 …それに、好きなんでしょう?サッカー」
俺ははっと彼女の目をまた見つめた。
透き通った瞳が返ってきて、驚く。
おおきな、ひとみ。
彼女はそれをしばたかせ、また言った。
「私も、結局ピアノが好きで、だから携わっていたかったの。音楽の先生。それがいいなって思えたの。
 プロだと、それだけを仕事にしちゃうと、ただ好きなだけじゃいられなくなるかもしれないじゃない?」
彼女の言葉はすんなりと入ってきた。
年が近いということもあるのだろうか。
…それだけでは無いような気もする。
俺は頷いた。
「サッカーが好きっていう、それだけでいても、今はいいんじゃないの?」
彼女はにっこり笑った。



その放課後以来、俺はただストレスをぶつけにだけ、ピアノを弾きにはいかなくなった。
そして、毎日でもなくなった。
合唱部の部活のある、火曜日と、金曜日には必ずピアノを弾きにいった。
部活も気負うことも迷うこともなくなったせいか、より楽しくなった。

全ては、彼女のおかげだという気がしていた。

もう、俺は彼女にきっと恋をしていたのだ。





俺は、ピアノを弾く手を休めた。
先生、部活終わったんですか」
「あ、邪魔しちゃった?止めなくていいのに。もっと聴こうと思ったのにさー」
「邪魔じゃないですよ」
「笠井くんのピアノ好きだわ。前よりも良くなったね。何かスッキリした?」
彼女のこの笑みは、わざとだろうか?
先生のおかげですよ。俺の悩み、聞いてもらったから」
「ええ、そうなの?またまた!」
彼女が俺のピアノを好きだという、それだけでも十分な気がしていた。
「笠井くん、お茶飲む?」
「いいんですか?」
「後で、私のリクエスト聞いてくれない?あれ弾いてほしいの」
「…いいですよ」
「日本茶でいい?」
「はい」
俺も、彼女の淹れる日本茶が好きだった。
ゆれる髪の毛が好きだった。
白い指先が好きだった。
瞳が、好きだった。
十分だと思った。

湯気の立つ湯飲みを前に、事務机に座る彼女、ソファに座る俺。
いつもと同じ位置だった。

「笠井くんって、すごいモテるのね」
「は?」
突拍子も無く、彼女は言った。
しかも、何故だか嬉しそうに話している。
「誰から聞いたんですか。そんなこと」
俺は恥ずかしいような、面白くないような、そんな風な様子を悟られないように湯飲みに口づける。
「第一音楽室からね、見えるの。サッカー部のグラウンドが。したら、こんなこと言っていいのかな。合唱部の子がちょっと騒いでてね。
 笠井くんだー!藤代くんだー!って」
何だか本当に可笑しそうに彼女は続ける。
彼女が可笑しそうであればあるほど、俺は面白くない。
「すごいよー。やっぱり、何か若いなーって思っちゃった」
彼女はそう付け加えると、お茶を飲んだ。
その言葉に越えられない年齢の差を感じ、益々俺の不機嫌度は増していった。
完全に、俺は先生の眼中に無い?
しかし、次の言葉でそれも中和されてしまった。

「やっぱり、サッカーしてる笠井くんてカッコ良いもんね」

思わず顔を合わせられなくて、黙って湯飲みの中身を減らすことに集中してしまった。
照れてるのー?などと茶化す言葉も、俺の耳には入らない。
誰がかっこいいだなんて騒いでいるのも、関係ない。
好きな人にそう言われるだけで、サッカーやってて良かった、なんて思えてしまう程、男って単純なんだな、と自覚した。
先生には、敵わないです」
「何ソレ」
あははーと笑い飛ばす彼女の方は、まだ向けない。
多分、頬が赤い。自分でも分かる。
「―初めの授業のときからそれは思ってましたけど」
「はじめの?」
「覚えてますか。ウチのクラスの授業」
ふふ、と聞こえた。
「覚えてるよ。一番初めだったもん」
「突然、あんな質問受けて、ああ流されるとは誰も思ってませんでしたよ」
「あはは、私は、ああも来るかもしれないなーとか思ったから」
「佐々木とか、あの後誠二にからかわれてましたから」
「藤代くんに?そうなの?」
彼女は爆笑していた。それにつられて、ようやく俺は身体を彼女の方に向けて、笑った。
「私、見た目が童顔らしいから、ナメらんないようにしないと!とか思ってたの」
気持ちよく笑いながら彼女は言った。
薄い化粧をしている先生は、確かに先生という威厳は無いけれども、親しい近所のオネエサンといった位置に感じられ、とても人気があるのだ。
生徒の前でもこういう風に笑ったりするところが、きっとその人気の秘訣なのだろう、と思う。
それと同時に、完全に男としての位置には立てないことを思い知らされた気がして、正直ヘコむ。
「皆ナメられませんよ。あんなこと言われちゃあ」
「よかった。内心、すごいびびってたんだけどね」
顔を見合わせて、また笑った。
「こんなこと言えるの、笠井くんにだけなんだけど。皆に言わないでよ!」

今は、まだ、少し特別な生徒、でも良いかな。
彼女の言うように、焦らず、大人になって。
追いつける日がくると思って。










笠井くんを書くとは、自分でも思ってなかったり。
なんっつうか、ピアノ好き男子っていいよね!そそる!

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