その日は朝からいい天気で、ちょっとだけ蒸し暑かった。
それはまさに初夏というべき気候に相応しく。
部活を終えた俺たちは汗、砂と埃まみれだった。

いいことなんて、特には無い日だったはずだ。













 
a n d a n t e 【アンダンテ】
















寮へ帰ると、すぐに先輩が寮母さんと何やらもめているのが目に入った。
よくよくそれを聞いてみればもめている訳ではなかったのだけれど。
やたらと気の毒だけど、と言う寮母さんの言葉が気になった。

「ええええー!!!!?風呂入れないんすか?まじで?うげー!」

食堂にサッカー部員が集まると、余る席はあるのかどうか分からない程、きっちりと人が埋まっている。
この寮は、サッカー部員だけの寮だから、寮内の生徒皆がここにいるわけだ。
その一番前、座る皆の顔を見渡す渋沢先輩の言葉に、いち早く噛み付いたのは、やはり、というか、誠二だった。

「いや、入れない訳じゃない。今、寮母さんが、男子寮に話をつけてきてくれるらしいからな。
 それに、歩いて7,8分はかかるけれど、銭湯がある。
 …ともかく、ボイラーが壊れてしまったんだから仕方ないだろう。
 しばらくはローテーションを組むかして、いくつかのグループに分けて、順番で男子寮の風呂と銭湯でやっていこう」
渋沢先輩は穏やかにそう言った。
確かに、そうするよりないだろう。
部活を終えた俺たちに、風呂抜きはキツイものだ。なにより、ただでさえ狭い部屋が汗臭さで充満するのがキツイ。
そんなことを考えながら、先ほど大ブーイングを起こした隣に座る誠二をチラリと見やると、
その誠二はむすくれた顔から、急に楽しそうな顔へと変わっていった。
「銭湯って、面白そうじゃね?俺、行ったことないっす!!キャプテン!俺銭湯チームがいいっす!」
ああ、もう、誠二ってやつは。
思わず渋沢先輩も苦笑している。

こうして、俺たちは銭湯へ行くことに、なった。



そういう俺も銭湯は初めてだった。
いくら寮の近くにあっても、こういうことが無い限り、入ることは無かっただろう。
結局、誠二の立候補により、俺ら1軍連中が銭湯班となり、埃臭い、既に店じまいをした商店街を、銭湯まで歩いた。
何だかつい、俺も楽しくなってきた。
風呂上りに、やっぱりビンのコーヒー牛乳を飲むものだ、とかを先輩と話しながら、目的地へと辿りつく。
のれんをくぐると、お湯と、石鹸のにおい。
自分の汗臭さに苦笑いをしながら、めいめいが風呂へと消えていった。




他の面子よりも一足先に上がった俺と誠二は銭湯の出入り口に置いてあった長椅子に座って、待っていた。
既にコーヒー牛乳は飲んだ(しかもやっぱりおいしかった)が、まだ喉渇いてるなぁ、と言いながら、コンビニに寄って帰ろうかと話していたときだった。
「あ、れ?せんせーじゃん!」
誠二が声をあげた先には、その名の示す通り、先生がいた。
なんで、こんなとこに…。
と思うよりも早く、反応するのは心臓だった。こっちを振り向く先生の瞳と俺の瞳がかち合うよりももっと早く、俺の鼓動はうるさく急ぐ。
「…藤代くんに、笠井くん!?何で、こんなとこに…」
振り向いた先生の髪は、銭湯の入り口から漏れる明かりの中で分かるが、少し湿っていて、ウェーブが際立っていた。
顔にも化粧がされていないので、余計に幼く見える。まるで俺たちと変わらないような年にだって。
驚いている先生に、誠二が笑いながら答えている。
「今日、うちの寮のボイラーいかれちゃったらしくって、んで、銭湯なんすよー。
 先生も、銭湯帰りっすか?」
「うん、そう。家、近いのよ」
先生は俺と誠二を見ながら、今まさに引いて行こうとしている自転車を示し、言った。
誠二は例の良い感じのする遠慮のなさで、聞く。
「先生、家この辺なんだ。実家?」
「ううん、地元は東京じゃないから、一人よ。あ、でもちゃんとお風呂はついてるよ。たまに銭湯に入りたくなるのね」
ふふ、と先生は笑う。
こんなとこで、会えるなんて。
俺はただ、先生を前にして、言葉すら出せなかった。
それはただ驚いていた訳でもなくて。
スウェットのパンツにパーカーというまさに部屋着的な先生を、見てしまった。
素顔に白い肌の、先生。
これは、俺にとってラッキー、なのか、そうでないのか、もう量りかねている。
そうして戸惑っている俺の隣で、誠二は先生に何やら話しかける。
「先生、腹減らね?あすこ、ラーメンって書いてあるんだけど」
「藤代くん、行かないわよ。何より、私今、そんなお金も持ってないもの」
「なーんだよ、ちっ」
笑う、誠二の声が、何故か遠い。

「どうした、藤代、笠井、待たせたな」
急に後ろから降った声に、別に悪いこともしていないのに、俺は身を固くした。
…渋沢先輩だということは、声でも分かったのに。
「…あ…先生?こんばんは、先生も、お風呂ですか」
「こんばんは、渋沢くんの引率があれば、送っていったりしなくても大丈夫そうね」
俺たちの一歩後ろから、先輩は笑いかけ、先生は少し笑いながら、そう答えた。
俺はただ、先生を見つめた。
「先生こそ、むしろ一人じゃ危ないでしょう。こんな夜に」
あはは、と軽く声をたてながら、先生は持っている洗面器をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫よ、割といつもだもの」
あ、先生、ビーサンだ。
「…でも、いくら先生と言っても、俺たちがこうして会った後に一人でお帰しする訳にはなぁ…」
先輩が、言う。
「そうっすよ!マジで!先生だって女の子じゃないっすか!」
誠二がかぶせて、言う。
「いや、女の子では、ないと、思う、よ…」
先生は、遠慮がちに、言った。
何だか俺も何か言わなければならないような気がして、口をはさむ。
「送りますよ」
「え…」
少しばかりの緊張のせいか、そっけなく、響いた、言葉。
かけられた当の本人もまた驚いた顔で俺を見る。
渋沢先輩は頷いた。
「確かに、藤代はともかく、笠井なら安心だな。笠井、行ってこい」
その言葉に、誠二ははーっと声を出す。
「なんすか!俺って信用無いみたいじゃないっすか!んなことないしー」
「そうか?それはそうと、藤代がいつも見ている例の番組が始まる時間じゃないのか?」
慌てて銭湯の入り口にかけてあった時計を振り返る誠二につられて、俺も時計を見やった。
長い針は10の文字を示していた。8時50分。
「やっべ!…せんせーさよーなら!後はタクがしっかり送るそうっすから!」
慌てて俺たちを残し、背を向けて走る誠二に、俺も、渋沢先輩も、先生も、笑った。
「…じゃあ、笠井にここは任せることにして、俺は他のやつらと先に戻るぞ。送ったら真っ直ぐ帰れよ」
「は、い」
先輩だって、誠二と変わらないぐらいの勢いで、背を向けて、歩いて行ってしまった。
その場に取り残されたような俺と、先生は、思わず顔を見合わせていた。
「笠井くんは、あの中にいたら寡黙な方なのね」
そういう、訳でも、無いんだけど。
「……でしょうか」
「うーん、だって、いつもとちょっと違ったよ?」
首を少し傾げて、先生は笑いながら言った。
俺は恥ずかしくて、顔を伏せ、自転車の荷台を軽く押した。
「で、先生の家は、どっちですか」
「本当に、いいのよ、近いから」
急に先生は手も、首も振って、慌てたように言った。
そんなに慌てる程、気まずいのだろうか。
確かに、生徒と夜中に歩いているところをもし、見られたら、大変なことかも、しれない。
「それでも、キャプテンにああ言われた手前、ちゃんと送らないと、何言われるか…」
俺が顔を上げると、先生が今度は、うつむいて、そして、小さく言った。

「ありがとう」

それは、ずるい。
先生が、先生ではなく見えてしまう。
俺はどきどきどきと再び早鐘を打ち始めた心臓を押さえつけるように、腰を上げながら、自転車を押すことを代わった。



「まさか、銭湯で会うとは、思わなかったなぁ」
大きく伸びをしながら、先生は隣を歩く。
俺は相槌をうちながら、「そうですね」とだけ、言った。
あー、俺、もしかして意識してるのばれているんじゃないだろうか。
恥ずかしくて、もう自転車漕いで逃げたいぐらいだ。
けれども、実際のところ、身体は素直に先生に合わせてゆっくりゆっくりと歩いている。
当たり前だ。
嬉しいことなのだから。ただ、辛くても。
「あ、ちょっとごめん」
先生は、既に真っ暗になっている商店街の、薄明かり―自動販売機だ―のところまで小走りで行くと、小銭を入れて、何かを買っていた。
俺は近づきながら、それが何の自販機なのか分かり、目を見開く。
先生は早速買った缶のプルタブを開けると、二口、三口、ごくごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
「せ、生徒の目の前で!酒!」
「…だって、今は先生も何もないでしょー。私のプライベートだよぅ。ここでいつも、銭湯帰りはビール買って飲みながら帰るの」
そう、先生は明るく言いながら、小銭をまた取り出す。
「笠井くんも、何か飲む?送ってくれる、お礼に」
缶ビール片手に微笑む先生は、確かにいつもの先生とは違って、すごくすごく刺激的に映る。いけない。
でも、決して嫌いではない。
「じゃあ、同じの」
当然のように言う俺に、当然のように先生は何言ってんの!と言うと、思った。のだけれども。
ガゴカゴン!という音がして、自販機の取り出し口から先生が投げて寄越したのは、
まさしく先生の左手のそれと同じ、缶だった。
「いや、先生、怒るか、とか思ったんだけど…」
逆にキョトン、とした先生はこう言った。
「だって笠井くんが飲むって言ったじゃない」
言ったって、先生、教師じゃないか。
立ち止まったままの俺に、先生は少し近寄って、「飲まないなら、持って帰るよ」と言った。
「いや、飲みますけど…あとで。こっそりと」
あは、と声をたてると、先生は目をきゅっと細めて笑う。
「そうそう、こっそりね。まさか顔赤くして寮帰れないもんね!」
共犯ってことで、これは誰にも言わないでよ、と付け足して先生は缶を傾けた。

そうして歩いていると、確かに近かった先生のアパートにはすぐに着いてしまった。
「本当に近かったんだ」
「そうね、皆の寮とは反対方向だけど。あ…ごめんね。また歩かなきゃいけないね。自転車貸そうか?」
俺の言葉に、慌てて眉を寄せて、先生は言う。俺は首を横に振った。
「先生、じゃあ」
「うん、また、明日、学校でね」
かすかに熱のこもった瞳は、これ以上見ていられない。
そうは思うものの、足がここから去ることを拒むように、少しだけ、二人の間に沈黙が流れた。
背の低い先生。
そこまで高いほうでもない俺だけれど、頭一つ分はゆうに違う。
ふと、先生は俺の手元を指差した。
「…笠井くん、それ、タオルに巻いてったほうがいいかも、ね」
急に先生が発した言葉に、はっとして、俺はタオルや着替えを適当に突っ込んで持ってきていたナイロン袋に透けている、缶ビールの銘柄を読み上げた。
「…きりんらがーびーる…。そうですね。丸見えですね」
「………ぷっ」
先生は、吹き出した。俺も可笑しくなって、小さな声で笑った。
「じゃ、じゃあ、先生。また明日」
「うん、気をつけてね、ありがとう」
思わず軽やかな足元になりそうで、気をつけながら、アパートの外階段を降りた。
先生のアパートを見上げると、彼女はまだこちらを見ながら、笑って、手を振っていた。
俺も、軽く手を上げて、そして、寮へと戻った。
歯ブラシと、缶のぶつかる音に気づき、慌てて言われた通りにタオルで缶をくるんだ。















先生とたっくんシリーズ(適当に言ってるだけ)また書いてしまいました。
教師と生徒は無条件にそそるしね!
先生の密やかな贅沢は、発泡酒じゃなくビールを一日一本飲むこと、です。 私は…もうその他の雑種で良いぐらいになっちゃったよ…

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