風にも色があるのか、と思った。
今日の風の色は柔らかい黄色を連想させられる。
いつでも駆け回っていたグラウンドの隅に俺は立っている。
感慨深くもなる。
生徒としてこの地面を踏みしめるのは今日が最後なのだ。
サッカー部自体はとうに引退しているのだけれども、それでも制服に身を包み、この地に堂々と立てるのは今日が最後だ。
卒業式である今日は流石に朝練も無く、朝一番に登校して運動場に来ても当然、誰もいなかった。
足の裏、スニーカー越しに砂の感触を残しながら、俺は校舎へ向かった。3年間生活した学び舎へ。













 
a m a b i l e 【アマービレ】
















教師たちは既に校内にいるようだ。だが、すれ違うことは無かった。皆、雑務があるのか、職員室だけには人気が感じられる。
だったら、彼女もどこかにいるはずだ。
校内に漂う寒々しさのような薄っぺらい期待が胸を過ぎった。
それに素直に従っているのか、俺の足は勝手にいつもの音楽室へと向かっていた。
いや、本当はとっくに分かっていた。きっと、絶対、彼女はいるはずだ。
長い廊下。上履きを擦る音がイヤに耳につく。それが自分の緊張を駆り立てていってしまう気がして、頭を振った。
音楽の教員室の扉を叩く。微かに返る声。やっぱり、いた。
「笠井です」
言いながら、扉に手をかけた。
「笠井くん?今日はえらく早いね」
彼女の姿を目に入れた瞬間、不覚にも心臓が一際大きく動いてしまった。
先生は何してるんですか」
「私?私は、実はやることがなかったりして、ぼーっとしてる」
そう言って先生はいつもの笑顔を浮かべた。いつも通りの、気持ちよい笑顔。
肩から一房、ウェーブがかっている髪の束が垂れている。それが揺れた。
クリーム色のスーツを着込んでいる彼女はいつもよりも数段オトナに見えた。
それと、微かに…沈丁花の香り。
「沈丁花が近くにあるんですか?」
「え?」
先生が目を開いて、こちらをしばし見つめる。何だ?何か変なこと言っただろうか?
「ああ、きっとそれは…私」
「は?」
先生は俺に近づくとおもむろに片腕を俺の鼻先へ突き出した。その突然の行動に思わず目を閉じたとき、風圧と共に、沈丁花の香りが舞った。
「な…?香水?」
「そう。今日はいいかなぁと思って」
「てっきり、外から香ってくるのかと…」
動揺を悟られないように視線を外しながら、答えた。
先生が小さく笑った。
「いい香り?」
「…」
黙って、頷く。
「それで、笠井くんはこんな早くにどうしたの?」
何しに来たの?と聞かない先生の言い回しに若干の気遣いを感じて、思わず笑ってみる。
「ちょっとピアノでも弾こうかと」
口を吐いて出たのはそんな言葉だった。
言える訳はなかった。
「あ、ごめん、鍵かけてあったね」
例の香りをうっすらと残して、先生は教員室から音楽室へ続く扉へ向かった。実のところ、音楽室側の扉なんて開けようとせずに真っ直ぐこの教員室へ来たのだけれど、もちろんそれは黙っている。

久々に触れた冷ややかな鍵盤をなぞる。
指を踊らせる。
「何か、弾きましょうか」
静かな音楽室に少しづつ、音が溢れる。
「じゃあ…そうね…うーん、…今日は卒業式だし、別れの曲でも弾いてもらおうかなぁ」
あまりのそのベタさに苦笑しつつ目線をあげて先生を見た。けれども彼女は笑うでもなく、どこか神妙な顔つきですらいた。
黙ってそのリクエストに答える。
「綺麗な旋律なのに、切なくなるじゃない。おめでたいのに、悲しい、卒業式にぴったりじゃない?」
先生も、悲しいと思っているのか。
それが自分に対してだけの感情ではないと理解はしながらも、同じ気持ちを共有できた気がした。
先生が俺の傍らに立っている。二人でこうしている時間すらもう終わるのだ。
俺は途中で手を止めた。
この人の前でこんなに情感を込めて、弾けない。
「…笠井くん?」
「先生は、俺のことをどう思っているんですか」
ゆっくりと身体の中に自分が放った言葉の意味が浸透していった。でももう内から、口から溢れ出した言葉は止まらない。
「どうって…」
「俺は先生とこのまま離れ離れになるのが嫌だ」
このとき、俺は困った顔を浮かべる先生を想像していた。
なのに、実物の表情は全く違った。
微笑みすら、浮かべていた。
「私だって、寂しいよ。でも」
「…でも?」
「そんなこと、笠井くんから言ってくれるとは思わなかった」
ずっと触れることすら叶わないと思っていた先生が、すごく近くにいた。
椅子から立ち上がって、先生を見下ろす。
そっと、一房垂れている髪の毛に触れてみた。先生は身じろぎすらせずに俺の目を見ている。俺は視線を合わせることができずに、自分の手元だけを見た。
「いつでも、会いにきて」
俺は首を横に振る。そして椅子に再び腰を下ろした。
「そんなこと、誰にでも言うんでしょう」
きょとん、とした顔になった先生。それでも引っ込みがつかなくなり、どんどんと口をついて感情がこぼれてしまう。
「私は、教師として言ってるんじゃないよ?…笠井くんは私の家だって知ってるじゃない」
次に呆けた顔をするのは自分の番だった。先生の言葉の真意が、掴めない。
「どういう…」
気づけばずっと近くに先生の顔があった。ふわりと吐息すらかかる近さだ。例の甘い香りを漂わせ、先生はそのまま囁いた。
「また会えるよね」
頬に柔らかいものを感じた…気がした。驚いて、そのまま身体を離した先生の顔を見上げると、何とも言えない悪戯っ子のような笑顔で微笑んでいた。
キスされたのだとやっと気づく。
「え?」
「私も遊びに行っていい?一人暮らし、始めるんでしょう?」
彼女が微笑んだまま、ぽーん、という音を立ててピアノの鍵盤をひとつ、触れた。
突然の展開に頭の中身はついていけなくて、俺はただ先生の笑顔を見つめながら、頷くことしかできなかった。












窓からは微かに桃色をほころばせようとしている桜並木が見えた。それは学校の敷地のもので、これから迎える新入生のためのものであるかのようだ。
「せんせい、花見行きましょうか」
俺がそう言うと、先生はコーヒーの入ったマグカップをコタツの上に置きながら、諌めるように言った。
「あのね、もう私は笠井くんの教師じゃないんだけど」
いつそう言われるかと思っていた、その一言が彼女の口から飛び出て、つい苦笑いのような顔を見せてしまう。俺を見て先生も笑った。
「じゃあ、…………さんって呼んでいいですか。それに俺だっていつまでも生徒じゃないですよ」
「そっか…分かった。竹巳くん」
視線が合うと、二人して可笑しくなって、笑ってしまう。照れたようなさんを見たのは初めてで、嬉しくなった。
部屋の空気が一瞬で柔らかくなったような気がする。ふわっとカーテンが風船のように膨らんで、しぼむのを目の端に捉えながら、隣に座ったさんをぎゅっと抱きしめた。甘い香りが鼻をくすぐる。あの卒業式の香り。生徒と教師という枠からの、卒業の日。
「来週ぐらいに行きましょう。桜」
「うん、きっと見頃だね」
眩暈がしそうなほど。幸せってこんな感じなのかとクリーム色のカーテンを目で追いながら、ぼんやり思った。














先生とたっくんシリーズ(適当に言ってるだけ)またまた書いてしまいました。
時期がずれててごめんなさい。本当は年末ぐらいに書いていたんですが、里帰りに間に合わなかったの。
こういう攻めヒロインは感情移入はあまりできないかもしれませんが、可愛らしい笠井くんが書きたくてうずうずでした。

このシリーズの題名はもちろん音楽用語からなのです。イタタですみません。
でも、笠井くんっぽくって結構すきです。

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