誰もいない夕暮れの教室。 誰もいないと思っていたのは間違いだったようだ。 宿題のプリントを机に忘れたと気づいた俺は部活を終えてすぐに教室へ引き返した。 だが、教室の前までくると、微かな物音に気づいたのだ。 その時なぜかこっそり扉のガラス部分から中を窺うようにしてしまった。 この時覗いたりしていなかったら、今こんなに気になることは無かっただろう。 教室内には、一番後ろの端の席に座る学級委員のの姿が見えた。 何をしているのだろうか、とよく見る。 次の瞬間、見てはいけなかった、と思った。 彼女の大きな瞳からひとつ、ふたつ、と大粒の涙が零れ落ちるのを。 いつもにこにことホームルームを取り仕切る彼女を思い出し、俺はその意外性に扉を開けることなどできなくなってしまった。 俺は宿題などどうでもいい、と思わず来た道を駆け戻っていたのだ。 見てはいけないものを見てしまった、気持ち。 無性に胸が高鳴るのは、思い切り走ったせいだ。 そうだ、そうだよ、と言い聞かすものの、俺はその日から彼女を目で追う。 だって、仕方が無いだろ? 気になって気になって、気づくと目で追ってる自分がいるんだから。 それでも決してあの涙の訳なんて聞くことはできなかった。 元より、用事でもないと話すことなど無かったし、そんな間柄の俺に聞かれても困らせるだけだろう。 そのままいつも視界の片隅に彼女の姿を入れながら、毎日は過ぎていった。 …それは単なるきっかけに過ぎないが、俺が彼女を見つめ始めるには十分な事件だった。 知らない、しずく
誰もいない昇降口。 誰もいないと思っていたのは間違いだったみたい。 部活の時間も委員会の時間もとうに過ぎた下校時刻は既に回っている。 私は職員室で委員会の先生と少し話しこんで遅くなってしまったのだ。 もう暗くなるから、気をつけて、と先生は言ったが、時は夏の初め。日はまだ長く、丁度夕日が差し込む頃だった。 下足箱の自分のクラスの列へ近づくと、人影が見えて、思わず身を隠してしまった。 その人が、意外に、意外な雰囲気を持っていたから。 その人―サッカー部の水野くんは、運動部なのにいつも涼しげな顔をしていて、体育会系とは程遠いところに位置するように思えた。 汗くさいとか、泥まみれとか、そういう形容がちっとも似合わなくて、むしろ清潔感すら感じるから。 そのいつも飄々としている水野くんが、下足箱に項垂れるように寄りかかっていて、一言くそ、と言葉を発した。 こっそり盗み見ると、あのサラサラな髪の毛は砂や汗まみれみたいだし、表情は何とも言えない苦い顔をしていた。 いつも本当に無表情に近いのに。 私はその意外性に出て行けなくなってしまった。 しばらくして、のろのろと靴を引っ張り出して帰った彼を見届け、私はやっと帰路へつくことができたのだ。 もしかして、見てはいけなかったのかしら。 アイドルと名高い彼のあんなところ。 私は帰り道、ずっと水野くんのことを考えていた。 いや、その日から、何かしら目につくようになってしまった。 何をあんなに悔しがっていたのかな。 そんなことは聞ける訳もなく、ただ毎日は過ぎていった。 …それは単なるきっかけではあるが、私が彼を見つめ始めるには十分なものであった。 そんなある日。 一体私、何のためにやっているんだろう。 誰もいない教室で、私は一人涙していた。 事の起こりはこうだった。 私は学級委員と共に、風紀委員会の委員長まで務めている。 そのせいで休み時間に教室にいないことも多く、ましてや元来騒ぐほうでも無かったので、確かにクラス内ではおとなしい方に分類されると思う。 ただ、それでも私は学級委員としての責務を大事にしていたし、ホームルームでの決定事項などの案も練り出したりしていたし、クラスに貢献している、と思っていた。 あの言葉を聞くまでは。 耳に入ったのは偶然。 廊下から教室に入ったときに本当に偶然聞こえてしまった。 「さんて、いてもいなくても分かんなくない?」 多分、彼女らには私が聞いたことすら気づいていないだろう。そんな他愛無い会話。 でも、私を打ちのめすには十分な言葉だった。 私だって、多少は繊細な心を持つ中学生なのだから。 一人前に、傷つく。 放課後、教室で委員会の資料を一人で綴じながら私は流れる涙を制服の袖で拭った。 何だか、前にもこうして泣いたことがあった。 私は泣き虫だから。 普段は強がっていたりすることが多いし、決して人前で泣くことはないけれど、小さい頃から一人でよく泣いた。 泣くことはストレス発散になっていいのだと聞くし、誰に迷惑をかける訳でもなく、一人で泣くことを私は好む。 それでも、ここは私一人の部屋では無いことを頭の隅で考え、思わず零れてゆくしずくをひたすら袖でぬぐい続けた。 そうして泣くことに夢中になり、やっと涙も治まったころ、カタンと廊下で物音がしたことに気づいた。 誰だろう、誰か、いたのかな。 もしかしたら教室に入ろうとして、私が泣いているところを見てしまったのかもしれない。 私は恥ずかしさが急にこみ上げてきて、急いで帰ろうと腰を浮かし、準備し始めた。 そこへガラリと勢い良い音がして、教室の前の方の扉が開いたのだ。 私は軽く顔を伏せたけれども、その人が誰だかしっかり見えた。と、いうことは彼にも私の顔は見えただろう。 「?」 語尾が少し上がり、窺うようにその人は声を発した。 やっぱり、泣いていたのはばれているみたい。 そうなったら隠しても仕方が無いし、逆に恥ずかしいかもしれないとして私は顔を上げた。 それにしても、意地悪だな。 泣いているって分かっているなら無視するなりすればいいのに…。 「水野くん、何か忘れ物?」 私はあえて明るいようにそう振舞った。滑稽にしか見えないかもしれないが、それは相手が彼であるから。 よりによって、水野くんだなんて、と私は密かに溜息すら吐いた。 私が毎日毎日自分のことを見つめているだなんて知るよしもないだろう、その横顔をちら、と見ると、彼は思い出したかのように自分の席へとつき、何やらごそごそ机を探っていた。やはり、忘れ物だったようだ。 「明日出さなきゃなんない社会のワーク、忘れたから」 それはさっきの私の言葉への答えだと分かっていても、私は何だかしっくりこない、と思った。 歯切れが悪そうに彼は続ける。私がしっくりこない訳はそれだ。 「あの、…。その…、」 「何?」 私は泣き腫らした赤い(であろう)目で彼の目を見つめた。 少し垂れ気味の彼の目を見つめると、真っ直ぐに見つめ返され、何だか呼吸までしづらくなる。 そんな端正な顔で私のぐちゃぐちゃに涙で汚れた顔は見られたくないのに、目を逸らすことができない。 「、前も泣いてただろう?」 「!」 一度ならずも見られていたことに私は音をたてるように頬に火が灯るのを感じた。何てことだろう。恥ずかしすぎる。今すぐにこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。なのに身体はまったく動かない。足が少しだけじり、と動いたが、全く立ち去ろうとなんてしていない。 「それでさ…もし、よかったら、なんだけど、俺でよかったら相談乗るからさ」 だから、言ってよ。 真っ直ぐに私の瞳を見つめたまま、水野くんはそう言い終えると、少し照れたふうに目を逸らした。 私は返す言葉が詰まって出てこない、喉に本当に詰まっているようだ。 普段はあまりこういうこともなく、ハッキリと思ったことは言うほうなのだが、こんな風に本当に言葉って喉につかえるんだな、なんて頭の半分で考えた。 もう半分で一生懸命、そう言ってくれた水野くんへの言葉を考えるのだけれど、ちっとも形にはならない。 水野くんは腕で椅子から立ち上がったままの私を座るように促し、自分も私の前の席へこちらを向いて腰を下ろした。 私はちゃんと座れたことに安堵するも、どう言っていいものか分からずに、考えはまとまらないままだった。 俯き加減で机の木目を眺めていると、ぽん、と頭に置かれた感触を知る。 少し目だけで見てみると、思った以上に近づいている彼の茶がかった髪の毛が視界に入り、どきりとした。部活のあとらしく、髪の毛は多少、汗で束になっているようで、さらさらとは動いていなかったけれど、私の心は確実に動かされた。 頭に乗せられた暖かい重みがぎこちなく私を撫でるそれに従って、私は涙とともに言葉も零していたのだ。 「……私、いらないって」 水野くんは何も言わず、黙って続きを聞こうとしてくれていた。 「いてもいなくても分かんない存在って言われるなら、いらないんだなって…思った」 自分でもすごく断片的にしか話せないことにすごくもどかしさを感じる。 けれど、彼は黙って私の頭を撫でつづけてくれた。 そのまま私は涙を少しだけ流し、一息吐くと、妙にすっきりとした頭の中に自分でも驚く。 落ち着いた私の様子を見てとったか、水野くんは私から手を離し、ぽつりとはじめた。 「…はいらなくなんかないよ」 私はおずおずと顔を上げる。すると、水野くんは笑うでも怒るでも泣くでもなく、すごく真面目な顔をしていた。 「がいないと俺らの組のホームルーム回らないしさ、俺だってすごく困る」 私の目からは目線を逸らしながら彼は続ける。 「俺は、ずっとのこと見てたけど、いつも忙しそうに立ち回ってて、 かといってそれを鼻にかける訳でも目立とうとする訳でもないしさ、 すごくいいと思った」 そこまで言うと、微かに染められた頬を水野くんは隠すように口元に手を当てた。 ……。 ずっと、見てた、って。 私だってずっと見てたのだけれど…。 そう思うと自然に言葉は口から滑り出していた。 「…私も、前に水野くんがくそ!て玄関で怒ってたの見たよ」 そう私が言うと、弾かれたように彼は顔をあげ、私の目を捉えた。 「いつ…!」 「ちょっと前。怒ってるだけじゃなかったみたいだけど、あれは、何だったの?私も言ったんだし、教えて」 「あれは…」 水野くんは困ったように眉を少しひそめ、でも話を続けた。 「ちょっと、部のいざこざで…なかなか人をまとめるって難しいよな」 最後の方は口元をあげて、私に笑いかけながら水野くんはそう言った。 そうだったんだ。完璧に見える水野くんでも色々悩みはあるものなのか、と納得しかけた、その時。 「な、は、俺のことどう思ってる?」 「え」 急なその質問に私は答えに窮した。 その私の様子を見て、水野くんは笑顔を消して、また真面目な顔に戻って、少し俯いて言う。 「俺は、さっき言った通り、ずっとのこと見ていて、思った。 すごく良い子で、可愛くて…それで、気づいた。 のことが好きだって」 私は突然のその告白に身を固めた。 どうしてそういう風になるの?まさか水野くんが私のことを好きだなんて夢にも思っていなかった私は急に振って湧いた幸せな言葉にしばし酔いしれると共に、何て返せば良いのかまた答えに困ってしまった。 そんな私の困っている様子を察したか、水野くんはとびきり素敵に私に笑いかけると、ただ今の気持ちを聞かせてほしい、と言った。 今の気持ちだなんて、そんなの分かりすぎている。 「私もね、この前水野くんが玄関で項垂れてるの見て、それから…何だか目で追うようになっちゃった。 きっと、私も水野くんが好きなんだと、思う」 私がそう告げると、今度は水野くんが今まで見たことも無いようなぽかん、とした間抜けな顔をしていた。 私はその顔といつもの顔のギャップに思わず噴出す。 「………!」 「な、なに笑ってんだよ」 「だ、だって…すごい間抜けな…」 私はさっきまでの涙はどこへやら。おかしくておかしくて、机に思わず突っ伏して笑いをこらえた。肩を震わせてこらえているのを、きっと彼は憮然とした顔でみているのだ、と思うと余計に笑いは抜けない。 「まさか、が、その、好きだなんて言ってくれると思わないから」 静かに私の頭の上に落とされた言葉に私は顔をあげる。 水野くんは私を正面から真っ直ぐ見据えていた。 「俺、さっきが泣いてるとこ見て、放っておけないってすごく思った」 「私も、この前、いつもと違う水野くんを見て、どうしたんだろうって聞きたくなった」 とっても柔らかく水野くんが笑うので、私もつられて笑ってみた。 「じゃあ、これから、もっと私の知らない水野くんのこと、教えてね?」 「俺も、のこと、もっともっと知りたい」 誰にも見せない水野くんのこと、私にこっそり見せてください。 私が気合入れて書くと文体が固くなってしまうのですよね…。 なるべく夢はほんわかティーンズハート(懐かしい・笑)風味で書こうとは思うのですけれどもね。 |