今日、ミハが言った。まぁ、それは特別でもなんでもない。今日に限らず、ほぼ毎日言ってるかもしれない言葉。 「水野くんかっこいいよ〜」 私は横目でサッカー部の練習風景に釘付けのミハを見て、そして視線を逸らす。 「今日もご精がでますね…」 「そりゃ出るよ。アドレナリンだってぶわー出てるよ。あー何とかお近づきになりたいなー」 「来年、同じクラスにでもなることを祈るとか」 「…、冷たいね」 恨めしそうに私を見ながらも、グラウンドのフェンスにかじりついたままのミハを置いて、私はその場を後にした。私はサッカー部の練習なんて見たくなかった。むしろ、見られない。もしあいつが私に気づいたら、なんて考えちゃうと、見られない。 「てゆうか、だって、サッカー部に幼馴染いるんでしょ?その辺から水野くん、紹介してもらったりできない?」 慌てて駆け寄ってきたミハは簡単に言ってみせる。私は手にしたカバンを持ち替えながら答えた。 「できる訳がないよ。幼馴染っていったって、今は何も話さないもん」 「え〜っと…なんだっけ?3組の…もり…?」 「……森長」 「あ、そうだそうだ。森長くんに話してさぁ、練習試合の日教えてもらうとか、それだけでもいいんだけど」 ミハはかわいくおねだりする格好で私の前に回りこむ。手を合わせて首をかしげる、それで。 私はわざとらしく大きく息をついた。 「だって、もう何年も喋ってないもん。何も今更話すことだってないよ」 そう私が言うと、ミハはおおげさに肩を落としながら、私の横に並んで歩き始めた。ミハのリアクションはその一つ一つが大きいのだけれど、それが可愛らしいミハの魅力をより演出している。そんな彼女は何もわざわざ人に頼らなくてもいいと思うんだけど。 「じゃあ、さ…もし何か話すことあったらさ、よろしくね…」 「うん。もし、あれば、ね」 未練がましく、グラウンドを振り返りながら帰るミハの横で、私は決して後ろを見はしなかった。 家に帰ると、制服から着替えもせずに私は居間のソファに身を投げ出した。一応スカートがぐちゃぐちゃにならないようにだけ気を配り、座りなおす。 「はあ」 まだ中学生だというのに私は疲れやすい気がする。というのも運動が嫌いなせいもあるんだろうけど。 そのままぼーっと窓の外の空を眺めながら、私は帰り際のミハの言葉を反芻していた。 「話すこと…ねぇ」 いつから話さなくなったのかは記憶が曖昧だけれど、多分小学校の3年生とか4年生とかそのあたり。お互い、同性の友達の方が優先順位が高くなった。それだけのことだろう、と思う。 小さいときから同じマンションの同じ階に住んでたので、当然一緒に遊ぶことが多かった。親同士も仲が良いせいもある。(親同士は今でも仲は良いけれど) それでもお互い中学生にもなれば幼馴染なんて意識の隅の隅に追いやられる存在だ。 こうして思い出すことは普通なら一日のうちにも無い日のほうが多いはず。 なのに、何故か今頃になって。 私はその幼馴染、森長祐介のことが気になって仕方ないようになっていた。 小さいときは「ゆうくん」と呼んでいたし、向こうにも「ちゃん」って呼ばれてた。 今は話す機会すら滅多にないけれど、もし会話するとしたら、苗字で呼び合うのだろう。 そういう関係になってしまったことをひたすら私は悲しんでいた。 でも、きっと仕方が無いことなんだと思う。 いつまでも、幼馴染のまま仲良くなんていられないんだ。 しばらくそうして、うだうだと取りとめもなく考え事をした後、帰ってすぐに脱ぎ捨てた靴下をもう一度履きなおし、私は家を出た。 マンションから3分ぐらい歩いた先に、私が通う塾がある。今日は塾の日だ。 教室とは違う匂い、様々な学生服の中、授業を真剣に聞くフリをして手だけを事務的に動かしている。 思考はさっきと同じ。彼のことを考えていた。 (…部活、終わったかな。毎日何時ぐらいまでやってるんだろう…) 話そうと思えば話してみたいことはきっとたくさんある。 でも実際、話しかけてもし迷惑がられたら、なんて思うと決して話しかけることなんてできなかった。 それよりも知らん顔をして忘れてしまえばいいんだろうと、思っていた。 子供のときの思い出のひとつにして。 でも、心のどこかで期待したり、一緒に話すところを想像したりもしている。 それって恋をしているみたいで、何だか変に焦るようなせわしい気分。 塾を後にして、ふと腕時計を見ると、まだ9時前だった。今日は早めに終わった、と息をつく。 一応9時までには家に戻っておかねばならない。なにしろ中学生なんだし。 ただ、なんとなくカフェオレが欲しくなって、コンビニへふらりと吸い込まれる。甘さ控えめと謳っていながら、実のところ甘めのカフェオレ。でもそれが飲みたい、と思って、紙パックのジュースの置いてある棚の前へと進んだ。 そして先にその前にいた人に目をやり、また焦った。 大きなスポーツバッグをぶらさげて、商品を吟味しているのは、彼だった。 何でここにいるのだろう、と一瞬思ったが、また一瞬の間に、部活が今まであったんだろう、と推測する。それにしても、今日話題にでたところで何たる偶然だろう。いつも塾の帰りになんて出会ったことないのに。 声をかけようか一瞬ためらって、でもまた一瞬の間にやめることにする。雑誌の棚の方に行こう、と踵を返したところで、あ、という声が背中から聞こえた。振り向くと彼がこちらを見て、声を出していた。 「よ、ひさしぶり」 「あ、うん、ひさしぶりだね」 …沈黙。彼が手に取っている野菜ジュースを見て、急速に自分の喉も渇いているのを思い出す。 彼の隣に立って、お目当てのカフェオレを手にするが、向こうは動き出す気配はない。 仕方なく、気まずい気持ちを振り払おうと、口を開く。 「今、部活の帰り?」 「うん、そう。そっちは、何?買い物に出た?」 「ううん、塾の帰り」 「あ、そっか。塾ね」 やっぱり、気まずいのは私だけでは無いみたいで、あっちもそうらしい。しきりに頷いてみたりしているが、儀礼的に質問をされているような気になる。 「じゃあ、私、これ買って帰るし」 「うん、俺も、これ買ったら帰るけど」 けど、なんだ? 少し待ってみるが、彼がその続きを紡ぐこともなく口を結んだのを見て、私は横を通り過ぎた。 でも、狭い店内、私の次にレジに並んだ彼は会計が済んで、店を出た私を追うように、小走りに寄ってきた。 何で、何で、と思いつつも、隣に立って、同じ歩調で歩き出すのを見ると、ただ同じマンションへ向かうだけなんだ、と当たり前のことを考えた。 けれど、彼は言う。 「なぁ、一緒に帰るよ」 「え?」 それでもこういう風に隣に立って歩くことは、一緒に帰る、ことなんだ。 改めて、彼の顔を不思議に思って見返す。でも彼は目線をそらしたまま、言った。 「こんな時間にさ、ちゃん一人で帰す訳にいかないじゃん」 なに、いきなり。 「なに、いきなり」 つい、本当に口に出てしまった。 「いや、さっきも言おうと思ったんだけど、何か妙に恥ずかしくて言えなくて。変じゃん。俺ら、ちっちゃい頃から知ってんのに」 何が変なの? いや、私にも変なことは分かってる。わざわざよそよそしくなるのも、ぶっきらぼうに返事をしたりするのも、異常に意識しちゃうのだって、変。 急に「ちゃん」なんて呼んで、それだって変だよ。と思いながら、それでも向こうから積極的に距離を埋めてくれたことが、嬉しく思う。その気持ちの方が勝っている。 「いつもさぁ」 うん?と僅かにゆうくんは耳を私へ向けて近づけた。 その仕草、そしてそれだけ距離のある身長差を思うと、きゅうっと胸が息苦しくなって、それで言葉を止めたが、彼は先を促す。 「何?」 「ううん、いつも、こんな部活遅いの?」 「あー、もうすぐ試合だしね。皆、今、すごいやる気だから」 「へー。ちょっと前までサッカー部ってだらけてたイメージなのに」 失言かな、と私は目だけを彼へ向けたけれども、表情には変化もなく、頷いていた。 「ん、そうだよね。今は違うけど。風祭さんって転校生、知ってる?あの人が来てから変わったから」 街灯に照らされた彼の顔は心底楽しそうに微笑んでいた。サッカー好きだったもんね。そう言いかけたけれど、やめた。カバンにしまったカフェオレのパックを取り出し、ストローを差し込む。 「いいねぇ。青春って感じで」 「青春?あー…うん、っぽいよね」 顔を見合わせて笑ってみると、ちょっと時間が昔に戻った気になれた。 |