社員といえども、貰えるものに見合った仕事じゃない気がする。 仕事を終えて、休憩室でのろのろと着替え終わると、壁にかけられた時計では22時を回っていた。 とある中規模スーパーの正社員である私は、店長と、パートの人と、バイトの子と…とにかく板ばさみも良いところ。もう押して押されて巻き込まれて簀巻きのようになっている気分だ。今日もクリスマスの人手が足りずに、バイトの子にお願いしたら、「彼氏がだめだって言うから」と3人に断られた。何が彼氏だ、と思わず悪態すら吐きたくなる。こちとら既にオワカレ済みですし、いたときだってイベント事の時は家族優先だったからクリスマス、なんて縁が無かった。 ふと馬鹿らしい考えを呼び起こしてしまった頭を大きく振って、休憩室を出る。 急いで休憩室兼ロッカーの鍵を閉めて、事務室に返す。 「お疲れ様です…」 帰るときぐらい、店長の顔を見たくなくて、すぐに事務室を出ようとしたけれど、その小さな望みさえも儚く消えた。 部屋の隅の事務机で精算処理をしていた店長が顔をあげて、口を開く。 「さん、24,5日のレジシフト、どうなったんだ?」 やっぱりそこか、とあからさまに肩を落として見せると、苦々しい顔をした店長が回転椅子の上で逆に肩を怒らせる。 「社員の君がしっかりしないと下で働く子たちだってだらけるばかりだぞ」 言い捨てるように店長は横を向く。かちんときても言い返すほどの気力も言葉も、そして強さも持ち合わせていなかった。 「……近くの大学やなんかにチラシでも貼っておいてもらうか…短期でも良いからとりあえずクリスマスと年末年始の」 ふうっと息を大きく吐いて、店長が言った。俯いた店長の少し寒々しくなった脳天が見える。確か今年で40歳の店長。 「じゃあ、私、明日お願いしてきます」 「ああ、頼む」 「それじゃあ、お疲れ様です」 事務室を後にして、ダンボールだらけの通用口を通って、外に出て、息を思いっきり吐く。それは白く白く夜空へ舞い上がった。それでもこのやるせない気持ちはすぐには決して消えない。 「あー…もう飲みまくりたい」 冷蔵庫の中でキンキンに冷えているだろうビールのことを思って、私は家路につく。 家の前の公園。 誰もいない夜の公園は街灯が立っていても気味が悪い。むしろ街灯があるからこそ、その光の影が大きくなり、恐ろしい気がする。 生憎この公園はさほど規模も大きくないし、ダンボールを家にするような人の住居ともなってはいない。 夜の公園にいるのは大体が自分たちの世界だけに入っている恋人同士か、それを覗いてやろうとする出歯亀連中のどちらかだ。 だから、私は決してこの公園に足を踏み入れることはなかった。側を通るのさえ少し怖いぐらいなのだから。 それだから、丁度公園の入り口に人がいるのにも気づきはしたが、そっとさりげなく道路の反対側へと移動した。変態さんには好みとかは関係無いだろう。私だって見かけは若い女の部類に入るのだから、自衛はせねばならない。自意識過剰だと言われようが、大体の世の女性ならそうすると思う。 「あ、あの…」 「…っっっ」 突然、その私が意識しまくっていた人影が話しかけてきたものだから、私は思わず声も出せずに立ちすくんだ。 「あ、俺、この間の、その、渋沢です」 「えっ?」 ふと私はその名前を聞いて、人影に顔を向けた。 よく見れば、数日前、公園で出会った高校生ではないか。 一瞬にして、あのときの恥ずかしい記憶が過ぎって、私は暗闇で顔を赤くしてしまう。 あの後、すぐに私たちは簡単に名乗りあうだけして、別れた。 「し、渋沢くん。こないだは、その、ごめんなさい!」 「いえ、あの…あれから、お元気でしたか?」 「え、あ、うん…」 元気かと聞かれ、今まで落ち込んでいたそのままの顔で返事をしてしまった。嫌だ。これでは、また慰めてくださいと言わんばかりじゃないか。 「どうしたの?こんな時間に?何でこんなところに?」 自分のさもしさが見えたのではないかと焦るあまりに矢継ぎ早に尋ねてしまう。彼はちょっとバツが悪そうに笑った。 「ええ、ちょっと、さんに会いたくなってしまって」 「え…」 突然のその思ってもみなかった言葉に私は次の句が告げない。 「実は、俺もちょっと落ち込むことがあって、どうしてもさんの顔が見たくなってしまったんです。でもご迷惑でしたら」 軽く頭を下げる彼に私は思わず声をかけてしまう。 「いいの。良かったら、近くだから、部屋上がっていく?」 痛々しいことになるような気がしたが、私は彼を誘えずにはいられなかった。 真っ暗な部屋に明かりを灯しても、寒々しい雰囲気は拭えなかった。 けれども部屋に久々に私以外の人が入ると、空気の密度はすぐに変わる。 私はエアコンを操作しながら、電気ポットのお湯の残量を確認した。二人分のコーヒーぐらいは淹れられそうだ。 「…すみません。中にまで入れてもらうつもりでは無かったのですが」 どこか言い訳がましい言葉なのに、どうして渋沢くんが言うと厭らしく感じないのだろう。私は笑顔が零れる。 「いいの。気にしないで。私が誘ったんだもの」 部屋にはインスタントのコーヒーの安っぽい香りが漂う。 狭い居間で渋沢くんは小さなテーブルの前に大きな身体を座らせていた。その様子に違和感は感じるが、何だか嬉しい。 「どうぞ」 「あ、頂きます」 彼は恐縮したように頭を下げた。テーブルを挟んで彼の目の前に私は腰を下ろす。 「外、寒かったのに、待っててくれたの?」 「うーん、あと5分いて、戻られなかったら、帰る気ではいました」 「…どれぐらい、待ってたの?」 「ええと…」 ちらっと彼は私の部屋の壁時計に目を走らせ、どこか恥ずかしそうに言う。 「…2時間…ぐらいでしょうか」 「2時間も!?しかも私が通るかどうかも分からなかったでしょ?」 「…すみません」 申し訳無さそうに彼は言う。けれど彼が案じているのだろう、気持ち悪いなどとは感じなかった。 「何だかストーカーみたいだから止めろって友達には言われたんですが、どうしても、そうするしかなくて」 「せめてスーパーの側だった方がいつ頃私が帰るかとか把握できたんじゃない?」 「そこまでするとご迷惑かなぁ…と」 彼の言い分に私は首を傾げた。生真面目なんだろうか。多分そうなのだろう。そういう雰囲気が彼からは伝わる。そのせいか、きっと私は気持ちが悪いと思わないのだろう。むしろほのかに嬉しくさえ感じる。 「そうだったんだ。携帯番号、交換すればよかったね」 彼のほうが位置は高いのに、上目遣いのように彼は私を見た。驚いているようだ。 「そんな…でも良いんですか?」 「何が?」 「その…得体の知れない男なんかに携帯教えたりして」 「ぷっ…」 渋沢くんのその言いように私は噴き出した。 「自分でそんなの言うの?おもしろいね、渋沢くんって」 私は置いておいたカバンを引き寄せて、携帯を探し出した。それに合わせて渋沢くんも慌ててポケットをまさぐっている。 まず私が彼の番号を聞いて、そして1回、彼の携帯を鳴らして切る。彼の方はどうやらあまり携帯の操作に不慣れなようで、ゆっくりゆっくり私の番号を登録しているようだ。 「試しに、かけてみます…あ、かかった。ありがとうございます」 「いえ、こちらこそ」 一通り、そうして番号を交換してみると、まずは渋沢くんが私に尋ねた。 「さっき、あまり元気じゃなさそうでしたが、何か…?」 「ああ、うん…」 急に思い出して気分が落ち込む。一気に頭の中が職場から持ち帰ったままの憂鬱な気分に戻る気がする。 「ちょっと。仕事で板ばさみな状態になっちゃっただけで。人手が足りなくてね〜」 できるだけ明るく言う。実際、板ばさみなのは今に始まったことでもない。ただ、時間が余り無いのに人手が足りなかったりアルバイトの子がクリスマスは出てくれなかったりすることは思うようにならないので歯痒い。 「で、渋沢くんは?」 これ以上、あまりそんな話はしたくなかったが、ここにまで来た理由ぐらいは聞かなくてはいけないだろう。 そう言うと、渋沢くんは人の良さそうな瞳を少し細めた。眉毛がそれに倣ってハの字となる。 「似たようなものかもしれないです。俺、運動部の部長をしているんですけど」 何となく目に浮かぶものがあって、私は頷いた。当に頼れそうな部長をやってそうだ。彼の茶色い髪がさらっと揺れて、彼は首を少し振った。 「いえ、ちょっと…うん何て言うんだろうな…」 歯切れが悪い彼の言葉を私は聞く。それでも、彼の声質がとても落ち着いていて聞き入ってしまう。 「実は、俺の落ち込んだことなんて大したことじゃない。何て言っていいか分からないんですが、本当はさんのことが気になって仕方が無かったんです」 真っ直ぐな言葉がその心地よい声と共にすんなり心に入ってきた。 見つめられるその瞳も真っ直ぐで、私はどぎまぎしてしまう。 その彼の瞳に誘われるようにして私は何となく頷いてみる。 「ありがとう…」 気まずく沈黙が流れた。 どきどきしてしまう。年上として余裕を持った態度でいたいのに、むしろ彼の方が何だか落ち着いているかのように見えて、私だけが意識している気がしてしまう。手持ち無沙汰なのでコーヒーを飲み下す。 「どうしても、あなたのことばかり考えてしまう」 目が合うと、彼はふとそれを逸らし、俯いてから、再び顔を上げた。眉に力がこもっている。 「好きなんです」 私がコーヒーを飲み込んだ喉元が音を立てた。それが部屋に響く。 年下の、しかもこんな真面目そうな子に告白されて、嬉しいような、何て言葉を返すべきか分からない困惑した気持ちがぶつかりあって、私は焦った。 早く、何か、声を出さなくては。 けれども、こんなに真っ直ぐに気持ちを伝えられたのは久しぶりで、私は余計に動揺していた。 渋沢くんの顔を窺ってみると、そこには強く、光を持った瞳があった。若い、と思う。当たって砕けても構わない、という勢いが十分に感じられる瞳だ。 ふと自分の高校時代を思い出してしまう。そうだ。好きだというだけで突っ走ることができていた。 目の前のこの人も、そうなのだ、と感じて、私は気づくと、鼓動がすごく早まっていた。 「…今、早急に返事が聞きたい訳じゃありません。俺のことをそういう風に意識していないというのは分かってますから」 私の沈黙に耐えかねたか、彼は笑顔で話す。 「ただ、もし良かったら、これから男として、恋愛対象として見てはもらえないでしょうか」 そう言う渋沢くんの顔は紛れも無く、「男」の顔だ。 ここまで言ってもらえて嬉しくないはずがない。私は頷いた。 「そんな風に言ってもらえるなんて、嬉しいよ。ありがとう」 渋沢くんの顔がぱっと無邪気な笑顔になった。 「そんな、こちらこそ。もしかしたら、俺の友達が言うように、気持ち悪がられるんじゃないかとか、思ってました」 「ううん、まさか。逆にからかわれてるんじゃないのかなって思うぐらい…こんな素敵な男の子にそう言われるなんて」 そう言って微笑むと、彼はほんのりと頬を染めて同じように微笑んでくれた。 こうして、私は随分年下の男の子と恋愛を始めることになった。 まさか、彼が高校生どころか、中学生であるとはこの時は知る由も無かったのだけれど。 |