Happy Birthday

(2) 
















 砂が舞う中、彼女を見つけた。
 慌てて来てくれたのだろうか。すこしだけ仕事をしてから来る、というメールが入っていたので俺はそう想像を働かせる。細身のジーンズにジャケットを羽織って彼女はフェンスから少し離れてこっちを見ていた。目が合うと、小さく手を振ってくれた。振り返す代わりに俺は笑った。
 あんまりデレデレもできないので、早く帰る用意をする為に、部室へ向かおうとすると、三上と擦れ違う。アイツの目的はすぐに分かった。振り向いてみると、俺よりもずっと近くに寄って彼女を見ていたので、驚いた。女の子たちが大きく声を上げたので俺は思わず「あーあ」と声に出してしまう。彼女は戸惑った顔で三上と向き合っていたが、何も言葉を交わす様子もなくこちらへ戻ってくるのを見て、正直ほっとした。妙な告げ口でもされたらかなわない。俺は三上に近寄り、肩を大きく叩いた。
「痛い」
 顔を見れば力が抜ける。面白がるような今にもからかい始めそうなそんな目を見返した。
「あんまり目立つようなことさせないでくれ」
「…悪ぃ」
 そのまま三上を置いて俺は急いで部室へ戻った。
 併設のシャワー室へ飛び込み、キャプテンでもある北川先輩に挨拶しながら空いているシャワーの前へ立つ。
「なんだ、渋沢。やけに急いでいるな」
 声にからかいの色が潜んでいた。俺は笑顔を返す。
「北川先輩こそ。デートじゃないんですか。柳さんが部室の前で待ってましたよ」
 柳さんは北川先輩の彼女だ。高等部では男子運動部のマネージャーに女子はなれないという規則があるのだが、マネージャーを務める諸先輩方(もちろん男子)からも一目置かれている世話焼き彼女さんである。北川先輩の専属マネージャーと言ってもいいかもしれない。だから皆が知っている公認の彼女だ。なんと羨ましいことだろう。そう俺が羨望しているとはつゆほどにも思っていないだろう先輩は、「あー、そうだった」とのんびりした声を上げている。怒らせると怖いんだよなー、と続くその言葉も嬉しそう。
 けれども、今日は俺自身もさんと会うことになっているので、純粋に微笑ましくすら思う。
 ふと三上の言葉が頭をよぎるが、それは今日は考えないことにしたので、頭からシャワーを浴び、洗い流すことにした。

 シャワーを終えて、急いで頭をタオルで拭きながら、カバンから携帯を取り出す。新着メール一件有り。指をメールボタンに滑らし、押す。「いつものお店にいます」やっぱりさんだった。正直に言うと、俺の携帯には藤代かさんからぐらいしかメールは届かない。俺は左手で頭を拭きつつ、右手で携帯を操り、「あと十分でいきます」と打ち込んでメールを送信した。大きな矢印の表示が消えて、『送信されました』という文字を確かめて携帯を畳む。未だにメールを打つより電話した方が早いと思う人種の一人なのだが、それとは別に、メールをもらうと素直に嬉しいとも思う。受信フォルダにの文字が並ぶのを見るたびに幸せが増えてゆく気がするから。だから彼女のようには絵文字をたくさん入れることはできないけど、返事は必ずする。(それでも一言二言が精一杯だが)

 校舎を出て、駅へ向かう道を歩く。せっかく汗がひいたのだから走り出しはしない。でも彼女を待たせていると思うとどうしても気持ちが早まり、同時に足を出す速度もあがってしまう気がする。
 駅へは歩いて8分。駅の手前に昔ながらの喫茶店があり、そこは彼女のお気に入りなのだと言う。おじいさんとおばあさんが夫婦で営んでいるこぢんまりとした店なのだが、駅の近くという立地と雰囲気のよさがあいまってか、いつもは昼下がりから盛況ぶりを伺う。しかし今日はちょうどお昼時ということもあってか、ベルのコロン、という音を聞きながら扉を開けると、2組ほどしかお客さんはいなかった。その内の1組、というか一人は間違いなくさんだったが。
 マスターに会釈をしながらさんの正面に腰掛ける。
「おまたせしました」
 文庫本に顔を落としていた彼女はすぐに俺の顔を見上げると、「ウェイターさんかと思った」と言って笑った。
 飴色の机に腕を置くと、ひやりとした。窓からは柔らかい昼の光が降り注ぎ、やっと一心地付いた、そんな気がする。
「ご注文は」
 マスターが人の良さそうな笑顔を浮かべてカウンターから声を掛けた。俺は「アイスコーヒーでお願いします」と返す。やっぱり喉が渇いていた。
「お疲れ様」
 にっこりと笑ってさんは手元のコーヒーカップを持った。
「見に来てくれてありがとう」
 見に来て欲しいと言ったのは自分だけど、本当に来てくれるとは思わなかったというのが本音だ。さんはいつも学校にいる俺を見に来ることを嫌がる。だから待ち合わせだって必ず学校から離れた場所だ。その気持ちは分からなくもない。出会ったときは中学生だった。初めはどうも高校生だと思っていたようで、年を言ったときに本気で驚いていた。嘘でしょう?と何度も聞かれたが、こればっかりは仕方がないので、返す言葉はいつも同じ。それから好きになってもらうのに5ヶ月かかった。いや、まだ本当に好かれているという自信は無いので少し違うかもしれない。けれど、男と女として付き合うというスタートラインには立てたと思う。それは俺の覚悟していたよりも早かったと思える。そう思うと、この老けて見える外見にも感謝をしなければならない。
 運ばれてきたアイスコーヒーを三分の一ぐらい一気に飲んだ。ほろ苦く。冷たい。
 にこにこしながらさんが口を開く。
「すごかったね、渋沢君」
「なにがですか?」
「なにがって、キーパーだったでしょ?すごく活躍してたね」
「試合的に言ってしまうと、キーパーが活躍するのは危ない試合なんですけど。それでも俺にとっては、さんにいい所を見せられてよかった試合です」
 俺が言うと、少しさんは笑って頬を染めた。
「あはは。私も見られてよかった。とっても、かっこよかった」
 次は俺が恥ずかしくなる番だった。
「応援に行けてよかった。でも…」
 さんは口を笑顔のまま。少し眉をきゅ、とさせながら言った。
「やっぱり若い子はすごい。渋沢くん、人気あるんだね。女の子の応援がすごかったね」
 そう言うさんの顔は過去を思い出すようなそんな顔に見える。悲しいことに、嫉妬しているような表情ではない。でも実際はあの女の子たちの興味は俺ばかりではないのだけど。
「俺じゃないですよ。皆が目当ての選手。三上ってやつがいるんですが」
「あ、今日、さっきいたよね。終わってからこっち見てた子が」
「そうです。あいつ、さんのこと見てたでしょう?女の子が騒ぐから止めてくれって言ったんですけど」
「ふふ、かっこいいもんね。三上くん。たまに渋沢くんの話にも出るよね。同室の三上くんのことでしょ」
 かっこいいって。三上はいいな。やっぱり顔がいいと違うんだな。
「あ。そろそろ出ようか。渋沢くん、コーヒー一気に飲んだね」
 あはは、と明るく笑いながらさんは腰をあげた。伝票に伸ばしかけたその手を俺は上から押さえた。
「しぶさわくん!」
「はは、ここはいいですよ」
「いいって。今日は」
「今日だからです。今日は何の日でしたっけ」
「……じゃあ。お願いしようかな」
 今日は彼女の誕生日。



 俺は料理が好きだし、得意だ。味も悪くないと思う。
 今日は彼女のために俺が腕を振るうことに決めていた。
 昼は夜のために軽く済ませよう!などと彼女が言うのでマックに行った。それから大型のスーパーマーケットに出かける。洋服や雑貨を彼女と一緒に見回りながら、可愛いなぁといいながら目を留めていたカゴのカバンをプレゼントだと言って買った。遠慮しすぎる彼女を説得して買うのはちょっと大変だったが、結果は喜んでもらえて俺も嬉しくなった。
 大人の男だったらここは指輪やネックレスや時計、といったものを贈るのだろうけども、(できれば俺だってそうしたかった)そこはしがない高校生。未だに親に養ってお小遣いをもらっている立場ではそうも行くはずもなく。妥当な値段で彼女もそんなに重く感じないだろうという、それは俺の計算。
 食材を買うときに、何が食べたいかと聞いたところ、煮物、と即答されて拍子抜けした。いつも何を食べているのだろう。
「いつも?うーん…。何だろう。適当に…」
 ちょっと照れながらさんが言った。やはり一人暮らしだとおざなりになるのかもしれない。スーパーであれこれ尋ねながら、今日は筑前煮をすることにした。メインはお肉が良いというのでハンバーグを作ろうとひき肉を買う。
「何だか誕生日っぽいね」
「あ、そうだ。ケーキも買おうと思ってたんです」
 どうしようもなく俺はワクワクしていた。ホールで買おうとしたらさんに止められたので、苺のショートケーキを二つ買った。

 そんなこんなで買い物を済ますと、バスで彼女のアパートへ戻った。
 こうするのは何だか一つの家に住みながらにして買い物に出たかのようで、ままごとのようで、少し気恥ずかしくもたまらなく楽しい。

 彼女の一人暮らしの台所はコンロが二つ。まな板と包丁、鍋とミルクパンと一人用の土鍋とフライパン、それぞれ一つづつ。それなりの調理はできそうだった。ここで料理をするのは初めてだ。まずは彼女に一通りの調味料の場所を聞いた。きちんと一箇所にまとめてあり、普段も自炊しているのだろうということを窺わせる。何度入ってもさんの部屋は緊張するが、不思議と小さな流しの前に立つと、落ち着いた。
 根菜を乱切りにする。こんにゃくを塩ずりしていると、手持ち無沙汰な様子で後ろに彼女が立つ気配がした。
「何かしようか?」
「うーん、今日は座ってて、と言いたいところだけど、一緒に作るというのもいいですね。玉ねぎ炒めてもらっていいですか」
 嬉しそうに彼女は笑った。年上ながら可愛いと思ってしまう瞬間だ。すぐにさんは隣に立ち、フライパンを温め始めた。
「ねえ、何で渋沢くんって料理が好きなの?できるようになったのは何かきっかけとかあった?私は一人暮らしするまで、しようとも思わなかったけど」
 じゅう、と玉ねぎがフライパンに散らばる。いい音がした。
「うーん。うちには祖母がいるから、ですかね。祖母が料理するのをずっと見てたんです。小さいときは親が仕事に出ているからずっと祖母の側にいたから…」
 言いながら、俺は鶏肉を鍋で炒める。2人で火を使うと狭いキッチンはとても暑くなるが、肩が触れるか触れないかの距離だということのほうが気になってしまう。あ、余計汗ばんでしまうじゃないか。
「じゃあ渋沢くんのごはんはおばあちゃん仕込みなんだ…」
 勝てそうにもないね、とちっちゃくさんが言うので、可愛くて、愛しくてしょうがなくなる。でも手は冷静に調理を遂行していた。もしこれがソファに座ってくつろいで、の台詞だったとしたら自分を抑えられたかどうかは知らない。
「これぐらいでいいかな」
 さんがフライパンの火を止めた。玉ねぎは小さく、飴色になっている。「ああ、ありがとう」
 ぼんやりと結婚したらこういう風に休日を過ごすのかな、と考え、あまりのおめでたさに一人、恥ずかしくなってしまった。幸せを感じさせるのはこの軽快な換気扇の音と夕食の香りのせいだ。

「無駄がないよね…ホントに、手馴れてる」
 小さな卓上に献立を並べているとさんが言った。湯気のたつ大皿を最後に置く。
「さ、じゃあさん」
 向かい同士に腰を下ろすと、さんが箸を手渡してくれる。真新しい茶色い箸だった。
「……もしかして、これ」
「…うん。今日買っちゃった」
 箸とさんを交互に見る。さんは少し俯いて頬を染めていた。これは、俺のための箸?これからも、こうして食事を共にすることを許されたのだと分かると胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛かった。喜びでも胸が苦しくなると初めて知った。
「ありがとう。さん。今日は、おめでとうございます。あなたが生まれてきてくれて、良かった」
 出会えてよかった。
「恥ずかしいね!それ。でもすごい嬉しい。ありがと。祝ってくれて」
 顔の前で手を振りながらさんが言った。頬がほんのり赤い。
 こうして2人だけの食事が始まった。どれもこれもおいしい、と感激しながら食べてくれるので嬉しくなる。ちょっとだけ祖母や母の気持ちが分かる気がする。好きな人にこうして食べてもらって、おいしいと声をかけてもらえるというのは、心がとても温かく、こっちも余計おいしく思えることなのだ。
「おいしかった。ごちそうさま」
 さんが番茶を淹れてきてくれた。香ばしい香りに俺も箸を置く。
 すると、さんは今までいた向かい側ではなく、俺の左隣に腰をおろした。自然、ベッドを背中に当てて並んで座る格好になる。俄かに俺は緊張する。左肩が強張る。
「ほんとにおいしかった。この筑前煮の作り方、後で教えて?」
「ああ、じゃあメモしときます」
「うん、ありがと」
「……」
「……」
 しばらく黙って茶をすする音だけが部屋に響いた。この沈黙は、なんというのだろう。今までにはない空気のような気がする。三上の言ったことが頭に浮かんではそれをかき消して、をしばし一人で繰り返していた。
「ねぇ。渋沢くん」
「は、はい」
 左側を見下ろすと、マグカップを机に乗せてこっちを見上げているさんと目が合った。
「もうその敬語やめませんか」
「ええ?」
「その…付き合ってるんだし…なんか…もうちょっとこう…」
 歯切れの悪いさんをじっと見る。あ、目を逸らされた。
「なんか…ねぇ。歳が違うの感じちゃう気がするのは私だけ?」
「あ」
 そうなのか。
 もしかして、今まで年齢の違いを感じさせていたのは自分のせいなのだろうか。
「じゃあ、えっと、気をつけます。じゃなくって、えっと…。気をつけることにするよ」
 つい出てしまう敬語は多分部活動で叩き込まれた上下関係の強い柱のせいだと思う。無意識だったにしても距離を感じさせてしまっていたなんて。落ち込む気持ちで俯く。
「ごめん。そんなつもりじゃなくって、別にわざとじゃなかったんだ」
「やだ、そんなの分かるよ。私、渋沢くんのそういうところ、好きなんだもん」
 あ、と口を開いたままさんは瞬時に顔を赤くした。
 一拍おいて、俺は言葉を発する代わりに腕をのばして、さんの肩を抱き寄せた。
 三上、今お前の言うことが分かった気がする。
 どうこう考えるよりも先に身体が反応することってあるんだな。
 可愛くて愛しくて。触れたらこう思われるかもしれない。とか。ひかれるかも、とか。そういうことを悩む暇も余裕もなく、衝動のまま肩を抱くことは存外に簡単だったし、それよりももっとさんの肩の細さとか柔らかさだとかを知れることが大事だと分かった。
 そして当のさんはというと、えへへ、と笑って俺の肩に額をくっつけているのだから。
 これって幸せ以外の何者でもない。
 夜はこれからだし、外泊届けも提出済みだし。
 敬語の壁もなくなったなら、きっと俺は考えるよりも思うままに動いてみるべきなのだろう。
「じゃあ、さんも壁なくしてくれないか」
「私が?壁って?」
「まず、俺の名前は知ってるのかな」
「あ………そういう、こと?」
 ふうん、と息を漏らしてからさんは「かつろうくん」とひらがなに聞こえる発音で小さく言った。
 顔を伏せたまま耳だけが真っ赤になっているのが見えて、これから先、どうしたらこの愛しいと思う気持ちを伝えることができるのか、しばし悩んだ。














何年も前に書いたものです。段落だけつけてあげました。



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