すきです すきです すきです 一番乗りで教室に入ると、やっぱり、当然だろうけれど、廊下の寒々しさと同じ温度が部屋中を満たしていた。 それでも今日は思い切りの良い快晴で、窓際には暖かそうな日差しが勢いよく注ぎ込まれていて、私は自分の席にカバンを置くと、すぐに日向へ向かう。 ただ、今日は何のためにこんなに早起きしてまで校内に入ったのかと言うと、やることがあるからだ。済ますべきことを早く終えておかねばならない。そう、誰もまだ来ないうちに。 今日は年に一度の、女の子の祭典だ。バレンタインディ。 もちろん、やることはただひとつ。チョコレートを渡すこと。 ただ直接渡す勇気が私には無い。だから机の中にこっそり入れておこうという寸法だ。そう考えているのは私だけでは無いようで、他のクラスにも人の気配はちらほらある。私の後にも誰かくるかもしれない。いや、きっと来る。私は自分の席に戻ってカバンの中から小さな包みを取り出した。オレンジ色の包装紙に深めの緑色のリボンがかかっている。もちろん中身はチョコレート。自分でも買って食べてみたけれど、本当においしかった。ちょっと甘いから、量はそんなに多くない。 それを私の前の机に差し込もうとしたら、何かにぶつかった。 さては英和辞書でも置きっぱなしか?と覗き込んでみると、私の目は点になった。 既に三つ程、可愛らしいリボンのかかった包みが入っていたのだ。 私は慌てて自分の包みをカバンに戻して、窓際まで走った。その場からすぐに離れた。そして戸口の方を窺ってみる。誰もいる気配は無い。何しろ教室一番乗りは間違いはないはず。 だとしたら、昨日の放課後から入っているんだ。なるほど。頭のいい人たちだなぁ、とちょっと感心すると同時に、本当に奴がモテるということをまざまざと思い知らされ、私の指先から冷えた感情がのぼってくる。どうしよう。あの上に、さらに自分の包みを突っ込むのは何だか負けた気がして嫌だ。 勝負は始まってもいないのに…いや、勝負どうこうってものでもないのだけれど、何となく、もう机の中には入れることはできない。 「うっす、おはよ」 「おはよう」 私の前の席の主、藤代誠二のご登校だ。 既に何やらご機嫌そうだ。満面の笑みを浮かべながら、話しかけてきた。 「一年生からチョコもらっちゃった。校門んとこで待ち伏せされちゃっててさ〜」 そう藤代は言いながら、右手に持った袋型の包みをぶらぶらと見せびらかす。既に机の中に入っていることも私は知っているし、去年もそうだったから私は動じない。 「へえ〜良かったねぇ〜」 私は微笑んで返す。それを藤代はまた笑顔で受け止め、今度は自分の席について、机の中に手を突っ込んだ。そして、私を振り返り、また笑う。 「わ、見て、。机ん中に入ってた」 知ってたよ、と心の中で返しながら、精一杯の笑顔を見せる。 「ええ〜誰から?すごいねー藤代は。モテる男は大変だねー」 自分で言いながら空々しく響く気がして妙にどきどきする。でも藤代はまったく気に留めてないふうに、私に笑顔を見せる。 「で、はくんないの?」 用意してますよ。本命用を。ということは億尾にも出さずに私はいーっと歯を見せる。 「そんだけもらってたらもういらないでしょ」 そう返すと、藤代は声をあげて笑った。 「まだもらえる気がするけどねー。だってバレンタインディはまだ始まったばっかだし」 それが真実なのは私にも嫌でも分かるから余計に憎たらしい。 「やらしい。自分で言うなって」 「だから、のもいつでもいいから待ってるから」 「あげないよ」 藤代はいいよーだ、別にー、と拗ねたフリすら始める。本当は未だにいつ渡せばいいのか分からなくて考えあぐねているっていうのに。やっぱり本気であげるのをためらってしまう。せっかく決心したっていうのに。 チャイムが鳴って、先生の足音がしてやっと藤代は前を向いた。その時私は心底ほっとした。 授業中も皆がそわそわしている気がする。 私も間違いなくそのうちの一人だろうと思うけれど。そうこうしている内に、午前中はとうに過ぎて、昼休みにとなってしまった。今日の給食はわかめご飯。バレンタインとはいえ、給食はごくごく普通のよう。それもそうか。七夕とは訳が違うんだな。 休み時間毎、藤代は教室の外へ出ていく。前の席にいるのだから、窺おうと思わずとも、様子は分かる。女の子が呼びに来るのが大半だ。 彼は給食後にも教室を出ていった。行き先は多分屋上。それは毎日サッカー部がたまっているから知っている。でも今日もそうなのかは分からない。今日だけは案外誰もいないかもしれないよね、と私の隣で牛乳を飲む由利子が言っていた。由利子は私の一番の友達で、私の気持ちももちろん知っている。 「だってサッカー部って皆モテるじゃん」小声で由利子が言った。 私は眉を寄せて、首を傾げてみせる。さあね、と言いながら。 「ね、屋上、行ってみる?」 由利子が言いながら、目をきらきらさせた。野次馬根性という言葉が私の頭の中にちかちかと映って消えたが、私は頭を振った。 「寒いし、やめようよ」 あからさまに残念そうな顔を見せて由利子は頷いた。そのとき、教室の前の戸ががらっと開いて、噂の的の彼が入ってきた。私はそれを視界に捉えながら、給食のトレイを片付けるために席を立つ。彼の手にはまた新しい、ピンクの袋がぶら下がっていた。 男の子たちの冷やかす声が羨望と嫉みの色を持って、聞こえてくる。藤代はそれに臆するどころか、逆に自慢げに「かわいかったんだけどさー」なんて言っている。それがどこの誰だったかは言わない辺りが彼らしい。私は複雑に絡む、焦りと、怖気づく気持ちとを顔に出さずに、男子の集団の横をすり抜けた。 「で、は?」 突然かけられた声に私は驚いて振り向いた。 男子集団の真ん中で、ニヤニヤしながら藤代がこっちを見ていた。 「だから、あげないってば」 こんなに怒った口調になるのはどうだろうと思いながら、藤代から目をそらすと、自分の席に戻った。後の様子を気にすることもできない。 由利子が頬をふくらませて待っていた。 「あんなこと言われたらねぇ、あげようと思っててもあげらんないじゃんね」 トーンを抑えて、彼女は言う。私は首を左右に振った。「もう、どーでもいーですよー」 とうとう放課後になってしまった。 カバンの中に、渡すあてのなくなったオレンジ色の包みが気持ちとは逆に、鮮やかに鎮座ましている。私はそれを見ると、小さく息を吐いて、席を立った。 少しだけ、粘った。もう教室には誰もいない。藤代の机の中だって、数冊の教科書しかない。 (やっぱり、やめようかな) 私は席を立った。椅子の足が床をこする音が嫌に耳につく。既に校内には人気はほとんど無いだけに、それが余計に悲しかった。 悲しい。自分のしていることが。 もったいない。せっかくキレイにラッピングされたチョコレートが。 待ってて。今帰ったら、食べてあげるから。やけくそになって、そう思ったときだった。 遠慮がちに開いた扉の音に驚いて、入り口に顔を向けると、彼が入ってくるところだった。 「あ、いたんだ、まだ」 「もう帰るけど。藤代はどうしたの」 「いや、ちょっと、忘れ物」 その格好で?と思わずにはいられなかったけど、彼はサッカー部のジャージのまま、こちらの方へ歩いてきた。そして机の中を覗いて、言った。 「あれ、ないや」 じっと、藤代の様子を見ていると、彼はふいに顔をあげて、手を出してきた。 「もらっていい?」 一気に汗が吹き出る感じがした。なに、これ、ちょっと。どういうつもり?彼の言わんとすることを私は感じて、思わず後ずさる。 「な、なにを?」 「持ってるんだろ?チョコレート」 藤代はいつもの笑顔で私に近づいた。手は差し出されたままだ。 「なに言って……」 「俺の勘違いかな」 「忘れ物はどうしたの」 「だから、俺も、お前も、忘れ物」 完敗だ。気づいてたんだ。私の気持ち。私は黙ってカバンの中から、今日何度も手で触った包みを取り出した。 「それ、くれる?」 満面の笑みで藤代が言う。私だって負けていられないんだから。 「私のチョコが欲しいんだって言ったら、あげる」 藤代はあは、と声をあげて笑ってから、小さい声で言った。 「のが欲しい」 私は言わせておきながら、彼の顔が見られなかった。どんな顔で言うのか、怖くて、恥ずかしくて、見ていられなかった。 そのまま、私は口を噤んだまま、包みを差し出した。それはもうぶっきらぼうに。でも情けないことに手が震えて震えて仕方なくて、藤代がそれを受け取った瞬間は痙攣するように、また震えてしまった。 それを見てか、藤代はふっと息を吐いて、小さく笑った気配がする。 「そんな緊張しなくても」 「するよ!…何で知ってたの。私がチョコ持ってきてるって」 慌てて私は話を変えた。それにしたって気になるから。 ああ、そんなこと、と藤代は軽く言う。 「俺、見たから。今朝教室一番乗りだっただろ?」 「!」 「で、俺の机の中、見ただろ?」 「!!」 「このチョコ片手に…」 「も、も、もうわかった。ごめんなさい。完敗です。もう」 あはははは、と可笑しそうに藤代は声をあげて笑った。それを聞いて私はやっと彼の顔を見る。 「だって、がくれなきゃ、せっかくのバレンタインの意味ないじゃん」 目を細めて、彼は私を見た。口元には笑みをすこし残し、一歩、私に近づく。 「ありがとう。俺、からのが欲しくて、いちにち気が気じゃなかったよ」 そんなこと口にするなんて、ずるい。藤代は顔色を変えずに私に笑いかけた。短く刈っている髪からにょきりと見える耳がほわりと赤く染まっていて、私の心臓はもっと煩くなった。ずるい。全くもって、ずるい。可愛いって、思ってしまったじゃないか。 「………じゃあ来月、3倍返しだから、ね」 精一杯の強がりと、勇気を込めて。 すきです。 |