ありがとう ふんわりとコーヒーの香りが漂ってきた。私はコーヒーメーカーの前に立つ。今日は特別だから、珈琲専門店で買ってきたお豆で淹れた。いつもはスーパーで買った粉だから、やっぱり香りが全然違う、気がした。 ふと壁に掛かる時計を見上げると、もう15時になろうとしていた。冷蔵庫から慎重に取り出したものをダイニングテーブルの上に広げる。うん、オーケー。ちらっと先生の書斎の方へ目をやると、丁度伸びをしている腕が見えた。 きっといいタイミングだ。私は小走りになってそちらへ近づいた。 「先生?コーヒー入りましたけどお茶にしませんか?」 顔をこちらに向けた先生は、何だかすっきりした顔をしていて、気持ちよく執筆作業が進んでいるんだと、何となくわかった。つい嬉しくなって笑顔になってしまう。すると、ちゃんと先生も微笑みを返してくれた。やっぱりだ。 「ああ、ちょうど終わったところだ」 椅子から立ち上がる先生を確認して、また急いでテーブルまで戻った。 「これはまた、すごいな」 「えっへっへ」 テーブルの上に広げられたものを見て、先生は素直に感嘆したような声を出す。何だか得意になってしまう。 「アナスタシアで特別に作ってもらいました!」 ビターショコラケーキを無理を言ってホールで買わせてもらったのだ。上にはまたチョコレートのネームプレート。そこには”秋吾さんHAPPY BIRTHDAY”と綴られている。 先生の反応が気になって顔を見上げると、そのケーキを見つめながら顎をこすっていた。ちょっとよく分からないけど、口元が優しい。照れてるのかな、と思うと急に年上のこの恋人が可愛く思えた。 「こんなに食べられるかな」 「食べましょうよ!余れば明日の朝食べてもいいですし」 きっとこのおやつの時間には食べきれないだろう、と思う。 でもどうしてもホールで誕生日っぽくしたかったのだ。 「ひとりで食べろと?」 意地悪しているように思えたのか、先生は挑戦的な声で聞いてくる。私は笑ってしまう。 「私も食べますから」 何よりこのアナスタシアのケーキはペロリと入ってしまう。甘すぎることがないのが一番なのだ。 そう返すと、先生は小さく息を吐く。もしかしたら何か変なことを言ってしまったのだろうか。でも何も言われないところをみると、大したことではないみたい。私はコーヒーをサーバーからカップへ移したり、お皿を出したり動き始めた。 初めて過ごす、先生のお誕生日だ。楽しくしたい。きっと先生もそう思ってくれてるんだろうな、と思うと自然に頬が緩んだ。 「えーっと、歌った方がいいですかね?」 「やめてくれよ」 思わず顔を合わせて笑ってしまう。こうなると、色紙で鎖も作って、帽子も用意しなきゃでしたね、と言うと顔の前で手を振りながら、先生は笑った。 半分本気だったけれど、絶対に嫌がられると思ってやめたのだ。 「じゃあ、歌いませんけど……」 私は軽く咳払いをした。もったいつけてるように見えるかもしれない。 「先生、お誕生日、おめでとうございます!」 「ありがとう」 ケーキを食べながら、色々話した。最近は大学生活もリズムが取れてきたので、アルバイトを始めてみた。先生も先生で、ノーベノレ賞の後から色々仕事が舞い込んできていた。表に出るような仕事は嫌がってしていないみたいだけれど、執筆の方は順調のよう。ありていに言えばどちらも忙しく、なかなかゆっくり話す暇もなかった。丁度日曜日である今日はまさに絶好の誕生日パーティー日和だったのだ。 「学校でも、先生の本、やっぱり人気です!あんな繊細な文章を書く人が私の好きな人なんだからって、本当は言いふらしたいぐらいです」 本当だった。『初恋三部作』はあれから一気に書店員のオススメレベルから売り上げランキングに入るほどの売れ行きとなっている。 若い女性をターゲットに、という触れ込み通り、周りの子も皆読んでいた。本当は自慢したいけれど、さすがにそんなことできないので秘密にしているけれど、それが苦しいときだってある。じっと先生のことを見ていると、ようやくニヤリ、と笑って先生は言った。 「俺だって、天使の彼女がいるんだってふれまわりたいさ」 相変わらずの冗談とも本気とも取れない言い回し。私はじんわりと胸の底が温かくなるのにまかせて、笑った。 「やだ、せんせい……やめてね?」 頬が熱かった。 ケーキを食べ終わり、ソファで日曜の午後のバラエティの再放送をぼんやりみていた。せっかくのゆっくりした時間、何だかもったいないなぁ、と隣に座る先生の腕をそっとひっぱった。 「ねえねえ先生。今日はもう書かないんですか?」 すると、気がついたように私の目をじっと見る。言葉の奥の気持ちを探るようなこの視線にはいつも、どきどきする。 「ああ、キリがいいところまでいったからな。よし、どこか出かけるか」 「やった!あ……」 私は思い出した。本当はケーキを食べるときに渡そうと思っていたのに、つい夢中で食べてしまって忘れていたプレゼントの存在を。慌ててダイニングテーブルの椅子に置きっぱなしのカバンからそれを取り出す。 「あの、何が喜んでもらえるか分からなかったから……」 ソファの先生の前に立つ。見上げてくる彼の視線は優しかった。 「何だ、別に気を使わなくてもいいのに」 気を使った訳ではなかった。 どちらかといえば、私がもらってほしい、という押し付ける気持ちの比重のほうが多いかもしれない。私は首を振った。 「いえ、だって私のプレゼント、使って欲しいから!毎日一緒にはいられないから……」 毎日毎日会っている訳ではない。それでも、執筆中も、目を留めて思い出してくれたら、嬉しい。そんな思いを込めて、選んだものだった。両手で小箱を先生の掌に乗せる。それを見ながら先生はぼそりと言った。 「ありがとう。開けてもいいか?」 「はい!!」 チョコレート色の薄紙を開くと、また紙の包装。それを開いて、大きめのマグカップを先生は引っ張り出した。ベージュでつるんとした八角柱をしている。傾げてみたり、底を見たり、先生はマグカップを弄ぶと、私の顔を見上げた。瞳が心なしか、キラキラとしている。 「はは、これはたくさん入るな」 「はい。ちょっと冷めちゃうかもしれないですけど、いっぱい入ります」 「嬉しいよ。ありがとう。毎日使わせてもらう」 「ぜひ!使ってください!」 嬉しそうに笑ってくれる先生を見ると、こちらまで嬉しくなる。 恋をすると、好きな人の笑顔だけで、満ち足りるんだな。そう初めて知ったのは、先生の笑顔のおかげだった。 「なあ、もうひとつ、俺の我儘を今日は聞いてくれるか?」 突然の申し出。私はちょっと首を傾げた。こんなことを言うのはいつだったか、『姪になってくれ』と言われたとき以来じゃないだろうか。珍しいこともあるものだ、と感じる。 「はい……私にできることなら」 先生が手を取るので、それに倣ってソファへと腰掛ける。さっきまでは上目遣いだった先生が今度は私を優しく見下ろす。距離も、近くなった。何を言われるか、というのもあって心臓がちょっとうるさくなる。 「いつまで名前呼びはお預けなんだ?」 「……あ、ああ……そういうことでしたか」 構えることではなかった。 でも、私にとっては十分考えていた問題だった。 私自身も、いつまで『先生』と呼ぶのだろう、とは思っていた。 けれども、突然お名前で呼ぶのも変な感じだし、と手を口元に当てて思い起こしていると、急かすように先生が口を開いた。 「俺にとってはそっちのほうがプレゼントになるんだけどな」 そう言って、先生は私の顔を覗き込んだ。 手を膝に戻し、ちょっと息を吸う。 恥ずかしい、とか発音も、変じゃないよね?とか、考えていると、膝の上の手を先生に軽く握られた。うん、焦っているのが伝わってしまったみたいだ。 「ええっと、やっぱり、恥ずかしいですし、年上の人を名前で呼ぶのってちょっと難しいなあって思って、でも、もちろん私も呼んで……みたいなって……」 「どうぞ」 素直にそう伝えると、有無を言わさぬように先生が答える。部屋の空気が変わった気がした。 突然、スイッチが入ったように甘い雰囲気になった気がする。 今なら、言えそうな気がした。 「秋吾さん……」 「うん、なんだ」 「えっ。呼べって言うから呼んだだけです」 「そうか」 先生の、――秋吾さんの頬がふわっと明るい。ちょっと嬉しい。 そのまま優しく優しく笑った秋吾さんが顔を近づけてきたので、胸の奥がきゅうっと鳴るのを感じながら、私はゆっくり瞳を閉じた。唇が触れ合うところから、ありがとう、と聞こえた気がした。 |