(2) あんなに先週まで寒かったのが嘘のように今日はいい天気だった。晴れ渡る空はずっと青く、まさに門出に相応しい陽気だ。 「ほんまに気持ちええなぁ〜!今日でここに通うのも最後やなんて、なんや信じられへんわぁ……。ふっつーの一日みたいやのに…」 式典へと向かう途中の外廊下ではるひはうーんと伸びをしながら言った。 「うん、ほんと、なんか卒業なんて実感、沸かないね」 ぞろぞろと並ぶ制服の群れ。当たり前のこの光景が今日で最後。もうこの制服を着ることも、こうして廊下を並んで歩くことも、はるひと廊下でおしゃべりするのも、今日で最後。私はぼんやりと思った。県内の高校はほとんどが今日、卒業式のはず。 頬を掠める冷たい風にふと気付くと、はるひが肩をぽんっと叩いた。 「なんやぽーっとして、物思いにふけるんは早いんやないの?」 「ぽーっとはしてないよ。今日卒業式だなって思っただけ」 「それを物思いって言うんやないの」 軽口が即座に口を吐く、はるひのテンポは小気味いい。でも、パティシエールになりたいというはるひは専門学校に進路を決めており、大学に進学する私とは当然離れてしまう。会えなくなるわけじゃないけれど、こんな日々がもう明日からは過ごせないなんて思うと、胸が締め付けられるような気がした。 「はるひと離れるの、寂しいな」 歩きながら小さく言うと、はるひは頬を少し高潮させて私の肩を今度は強く、叩いた。 「もう!そんなん、今言わんでよぉ!」 皆、今日だけは感傷的にもなりやすい。感激屋のはるひは特に。既にはるひの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。 「ごめん!体育館行こう!ごめんはるひ!すき!」 「もお〜!」 はるひになら、こんなに素直に好きって言えるのに。 そう思って少し、胸の真ん中がちくりと痛みを感じた。 卒業式が終わると、思い思い写真を撮ったり、卒業アルバムに寄せ書きをしたり、先生にお礼を言いに周ったり、卒業生は忙しい。私も例に漏れず、はるひや小野田さんと写真を撮ったり、手芸部の後輩にお花をもらって、少し感極まって涙を零したり、ばたばたと過ごした。 帰りにカラオケに行こうとはるひが誘ってくれたけれど、今日はどこも混んでそうだから、と理由をつけて断って、私は今灯台の前まで足を伸ばしていた。 伝説の羽ヶ崎灯台。人魚と青年のお話だったか。うっすらと記憶にあるような、ないような。色んなうわさのあるこの灯台へ来る途中、一組の男女を見た。 確か隣のクラスの人たちだったと思う。人目を気にしながら、手を繋いで帰っていったその様は、きっと想いを伝え合った後なんだろう、と感じさせられた。 急に私は気分が深く、沈んでいくのを感じた。 足取りも重くなり、途中で止まる。 遠めで灯台を目に入れて、私はくるりと回れ右をした。 (私には今更) できれば想いを伝えたかった。 言いたいことだけ言って、帰ってしまったあの人に。 でもこんなところにいたって会えるはずがない。私は緩慢な脚運びで帰路に着いた。 さぞ、私ははるひの言うところの『物思いにふけって』いたのだと思う。 いつも乗る路線とは違ったバスに乗ってしまったことに気付いたとき、窓の外は既に知らない町並みだった。 慌ててカバンを手繰り寄せて、降車ボタンを押す。運転手さんが告げたバス停の名前は聞き覚えの無いところだったけれど、とりあえず何より早めに降りてしまわないといけないと思った私は、バスから降りた。 周りを見渡すけれど、記憶にない場所で、急に不安になる。バス停はただ時刻表が立っているだけの簡素な場所だったけれど、私にはそれだけが頼りだったので、時刻表を凝視した。でもあまり人が通る路線では無いのか、今の時間は本数が少なく、次のバスまでは一時間も待つようだった。それでも子供ではあるまいし、完全に陽が暮れるまでには大通りに出れないことはないと思い、私はなんとなく歩き始める。 大きくカーブした緩やかな坂道を登ると、少し大きな建物が見えた。差し当たってそれを目標に私は歩いた。例えばお店なり、公民館なり、人のいるところだったとしたら、近くの大きなバス停を聞くこともできると思ったからだ。 近づくに連れて、気になった建物はとんがった屋根が印象的な教会のようなものだと分かった。 興味を引かれて、塀越しに伝って歩いてみると、塀が少し崩れているところがあったので、そこから敷地内に入ってみる。 (……叱られたり、しないよね、ちょっとだけ……) 勝手に入る後ろめたさもあったけれども、急に目の前に現れた可愛らしい教会への好奇心の方が勝っていた。近くに寄って見てみればみるほど、小さな教会は何だか私を吸い寄せているように思える。クリスチャンでもない私は教会というものを間近で見るのが初めてだったけれど、皆こういうように絵本に出てくるような雰囲気を備えているものなのか、不思議だった。 「あ、ちょっと開いてる……」 建物に対して大きな扉がほんの少し、隙間を開けていた。 中に入ってみると、正面のステンドグラスがまず目に入った。 上のほうから目でなぞってみると、優しいようなどこか怖いような、不思議な感覚に陥る。 私がそうやってステンドグラスに見とれていると、ふいに木製のドアの軋む音が耳に入って、私の心臓が少し跳ねた。身体が自然に震える。逆光のシルエットは男性のようで、私は瞬時に勝手に教会に入ったことを後悔した。 「ごめんなさ…」 「君は…………!」 その声が耳の奥でいつも震えていた声と同じ音だということに気付き、私はよく目を凝らした。 間違いなく、赤城くん、その人。彼はドアが派手に音を立てて閉じるのを気にする様子もなく、大股で私のほうへと近づいてきた。私は一歩、後ろへ下がる。 「君がどうして、ここに…?」 「私は、バスを間違えて乗っちゃって、それで……」 私はぼんやりとしながら経緯を説明すると、彼はちょっとだけ、笑った。ちっとも現実味のない出会いに私はもしかして、まだバスで居眠りでもしているのでは、と頬をつねる。 「……痛」 「何をしてるの、君は」 「私、バスでまだ寝てるのかと思った。赤城くんに会えるなんて、だって…」 「僕こそ、こんな奇跡みたいなことって……」 それから、赤城くんはこの教会にまつわる伝説を私に聞かせてくれた。私はそれを聞きながら、胸がなんだか苦しくなってゆくのを感じる。 何か言おうとするのに、それが言葉にならなくて、ただ彼の瞳を見つめると、彼は一歩、私にまた近づいてきた。彼が言う、奇跡と私たちの出会いをただ、聞く。そんな風に思っていてくれていたなんて、と胸の苦しさがまた酷くなる。 「だから、いつも一緒にいたいんだ、偶然なんかじゃなく」 「私も、一緒に、いたいよ」 ようやく、その言葉を絞りだすと、彼の顔が一瞬で大きく綻び、私も思わず笑った。 彼の瞳が少し潤んでいる。熱を持ったようなその視線から私も逸らせない。彼の唇が動いた。 「好きなんだ」 じんわりと目頭が熱くなる。けれど、ふとその言葉を聞いて、思った言葉が口をついてしまう。 「……過去形じゃなかったんだ」 「え?」 赤城くんの目がすこし丸く開かれた。思っていたより、瞳が大きいなぁ、と私は感じる。 思えばこうしてじっくりと彼の顔を見るのは初めてかもしれない。私は急に恥ずかしさを感じて、わざと少し口を尖らせて、言う。 「あの時。雨の日に会ったでしょ。あの時、『好きだった』って言ってたから」 「ああー…ああ」 私たちの距離が一歩、開いた。赤城くんが少し身を引いて、髪の毛を掻き毟っていたからだ。 その時のことを思い出しているのか、かき混ぜた髪の毛を少し整えて彼は言った。 「そう言ったのは、君が僕を…その、もう過去のことだと思ってると思ったからで」 「言いたいこと言って自分だけ、すっきりしちゃったのかと思った」 「ああ、……うん、ごめん。謝る。君の言葉を聞くのが、怖かったんだ。きっと」 そう言うと、赤城くんは右手を差し出してきた。向かい合う、私たちの間に不安定に揺れる彼の掌と顔とを見比べる。 「いや、察しようよ」 「う…うん……」 左手を自分の胸の辺りに当てると、鼓動が激しいのがよく分かった。もう片方の手をそうっと彼のその手に合わせる。すると探るように優しく、握られた。 「これからもよろしく」 「うん、こちらこそ、よろしく」 同じ気持ちだったというのに、すごく遠回りしたような気がするけれど、こうして、お互いの思いを確かめあえた今は、どうでもいいと思えるようになった。たったさっきまでは身体の中に錘があるように感じていたというのに、ただ、彼に気持ちを伝えられたことだけで、見る景色も、吸い込む空気すら軽やかに思う。 「もっと早く、赤城くんに言えばよかった」 「え?何を?」 赤城くんに連れていきたいところがあると引っ張ってこられ、バスの中、揺られながらときおり肩が触れ合うのを意識しながら、私が小さく呟くと、彼はすかさず返事を返してよこす。私はもっと小さく言う。 「それは、あの、……好きだってこと」 「…………」 黙りこんでしまった彼をちらっと横目で見ると、窓枠に肘をついて、外を見ていた。その横顔と耳が真っ赤で、私は思わず噴出す。 「僕はこういう偶然とか奇跡とか、信じてる訳じゃないけど」 噴出した私を目の端で諌めるように彼が見る。色づく頬でそうやって見られても説得力はないけれども。 「今日は、伝説を信じたね。こんな風に君に好きだなんて言ってもらえる日がくるなんて思ってもなかったからさ」 案外、乙女チックなんだね、と言おうとして、やっぱり止めた。一言多いってケンカになりそうだなんて思ったから、そう言う代わりに「うん、好きだよ」ともう一度伝える。 |