誰も知らない 文化祭が終わると、お祭り気分も抜け切らないまますぐにテスト勉強を始めなければならない。期末試験はすぐそこまできているのだ。 佐伯くんと私は珊瑚礁でのアルバイトを終えると、マスターに許可をもらってそこで次の日の予習を済ませることにしていた。今はその時間をテスト勉強に当てる。時間にして1時間だったけれど、(さすがに夜遅くなりすぎてしまうのは認められない、とマスターのお達しがあった)その分効率よく覚えられるように、と佐伯くんの教え方も分かりやすく、私は自分で勉強が面白くなってゆくのを感じていた。 「……ふー、できたー」 「もう?早いな。じゃコーヒー淹れてきて」 私が息を吐くと同時に、佐伯くんは顔を机から逸らすことなく、左手でカウンターの方へ私を追いやるように振った。私は思わず不満の声を漏らす。 「えー。だって私淹れるより佐伯くんのがおいしいんだから、やってよー。待ってるから」 「お前のほうが早くワーク終わったんだろ。俺は飲みながらやりたいんだ」 「……もう」 正直、佐伯くんにコーヒーを淹れるのは緊張するから嫌なのだ。 でも、一応お店で出すことはなくても、マスターや佐伯くん直々に教えてもらってはいる。家で淹れることだってある。 「文句言わないでよ」 「はいはい」 私は席を立った。ストーブの側を離れるとやっぱり寒い。11月の夜はやっぱり冷え込んでくる。カウンターの中に入ってまず電気をつけた。それからお湯を沸かそうと薬缶に火をかける。待つ間にコーヒー粉を探して、珊瑚礁ブレンドを引っ張り出す。そして、サイフォンやフィルターを手元に並べる。まるで理科の実験をするようなそれに初めはびっくりした。今は手順を間違えないようにどきどきするのみだ。 「手、震えてる。別に無理しなくてもいいけど」 突然、横から掛けられた声に驚いて、私は体を揺らした。 「いつの間に……」 「うん、終わったから。俺がやる」 「ほんと?良かった。佐伯くんが淹れたほうがおいしいもん。間違いないもん」 私が手を叩いて見せると、佐伯くんは口を横にむすんで、面白くなさそうな顔をした。髪の毛はバイトからのオールバックで、顔には勉強したままの眼鏡姿。それで怒ったような顔をされると、何だか全然違う人みたいだ。 私はカウンターの表側に回って、客席に着く。佐伯くんは慣れた手付きでテキパキとサイフォンを組み立てる。ふきんできゅ、とフラスコを撫でる様が絵になっていて、悔しい程にかっこよかった。 私の為だけに、こうしてコーヒーを淹れてくれるのだ、と思うとなんとも言えない優越感と幸福感が心を占めた。 「なんか嬉しいな」 ぽろり、とそれは口から零れ出てしまった。静かな店内にはそれは響き、当然目の前の彼の耳にも入る。 「なにが」 佐伯くんはロウトの中をかき混ぜながら、私の方を見ずに言う。私は慌てて言うべき理由を考えた。そのままずばり、じゃ恥ずかしくて伝えられない。 「ううん、えっと、佐伯くんのコーヒーおいしいから楽しみだなって、こと」 そう私が言うと、ふうう、とわざとらしい程の溜息が聞こえる。 「あのなぁ、お前も結構バイト長いんだから、やれよ」 「だって、佐伯くんがまだまだだなって言ってたじゃない」 「だからこそ、俺と二人のときに練習すりゃいいだろ?」 何だか薮蛇だったみたい。私は曖昧に笑って首を傾げた。 「はい、どうぞお客様。当店自慢の珊瑚礁ブレンドでございます」 かしこまって佐伯くんがカップを出す。カップもきちんと温められていた。寒々しい中にぬくもろうと両手でそれを包んだ。 「わーい。いただきます。佐伯くんもこっちこないの?」 「ああ、行く」 カウンターの内側から私の隣に自分用のマグカップをとん、と置くと、ぐるりと回って身体もその前に座った。隣に人がいると、やっぱり少し温かい。 「わ。曇った」 横を振り向くと、曇った眼鏡を外している佐伯くんがいた。私は何だかそれが可愛くて笑ってしまう。急に”かっこいいバリスタさん”から”いつもの佐伯くん”に戻ったような気がする。 「何笑ってんだよ」 「ううん。だって、眼鏡もかっこいいけど、いつもの佐伯くんだーと思ったから」 笑いながら、コーヒーを啜る。熱々で、酸味は控えめ。飲みやすく配合したという珊瑚礁ブレンド。お馴染みの味に私はほっと一つ息を吐く。 「おいしい」 「そりゃ、俺が淹れたからな。お前もこれぐらいできないと」 当然だ、と佐伯くんもカップから口を離すと言う。私は手と首を振った。 「えー、無理だよ、当分無理」 「だろうな」 「なんで!そこは『いやいやお前にもできるよ』って励ましてくれるところじゃないの?」 なんとも嬉しそうに佐伯くんは笑った。私をからかうのが生きがいなんじゃないのかと思うぐらい、嬉しそうなその顔。 けれど、意地悪を言っていても結局は勉強を教えてくれたり、コーヒーを淹れてくれたりするから、優しい人だ、と私は知ってる。 きっと私しか知らない、佐伯くんだ。 意地悪を言って私にチョップする彼も、オールバックの彼も、勉強を丁寧に教えてくれる彼も、曇った眼鏡を外す彼も、全部、私しか知らない。 このコーヒーの味だって、意地悪を言ったその後で、すごく優しく細めるその瞳も。 期末考査の結果が張り出されたと聞いて、早速見に行った。 自信が無いときは嫌々見るものだけれど、今回はしっかり勉強したぶん、楽しみですらあった。手ごたえが違うと思ったから。 「あ!あんた!!すっごいやん!!一位やで!?」 一緒に見ていたはるひが私の肩をばしんばしんと叩く。前にいた人たちが振り返るので、私は慌ててはるひを抑えて、人垣から離れた。 「止めてよ……すごく恥ずかしいじゃない」 「でも!すっごいやん!初めてやんか!!もっと胸張りぃや!」 「……うん」 初めて一位を取った。学年一位。すごい!と自分でも思う。 これは勉強を教えてくれた佐伯くんのおかげ、とそこまで感じたとき、突然頭に衝撃を受けた。 「……った……何するの!?」 「ふん」 こんなことを突然するのは彼しかいない。勢い振り向いて、やはり予想通りそこにいた佐伯くんに文句を言う。 「いきなり何するのよ」 「勝ったつもりか?勝ったつもりなのか?」 腕を組んで、平静を装うその佐伯くんの姿に、私はつい意地悪したくなる気持ちを抑えられなかった。わざとにっこりと微笑んでみせると、乱れた髪の毛を撫で、言ってやる。 「べつに?」 「な、なんだその余裕。俺は負けたのか……」 佐伯くんはがくりと肩を落として教室の方へ消えて行ってしまった。その後姿はいかにも残念そうで、少し気の毒にすら思える。そんなやりとりを隣で見ていたはるひは首を傾げていた。 「プリンスってあんなキャラやったっけ?」 私も首を傾げながらちょっと笑った。 私しか知らない佐伯くんだよ、と心の中で教えてあげる。 |