独占欲を満たす方法











 ある放課後、部活が終わったときのことだった。
 その日は嵐さんはバイトの日で、俺はというと毎回その曜日はそうしているように、マネージャーのちゃんの手伝いのようなことをしていた。
 「主将代理だね」とちゃんは笑って言う。そう言えば聞こえがいいが、実のところはただちゃんの指示に従って部員を先に帰し、戸締りの確認やちょっとした片付けを手伝うだけだ。
 でもまぁ悪い気はしないし、何よりこの時間はちゃんと二人きりになれる貴重な時間なので、俺はいつもこの時間を楽しみに部活を終えていると言える。帰りに二人でファミレスに寄ることも多いし、今日だってそう誘おうと思っていたところだった。

「お腹、いたい」
「えっ」

 そう言うとちゃんは畳に膝をついた。
 確かに今日は朝練のときから顔色がよくないな、とは思っていた。風邪なのかな、とは思いつつ元気そうには振舞っていたので何も聞かなかったけれど、ここまでしんどそうな彼女を初めて見た俺は俄かに慌てた。
「だ、だいじょぶ?ちゃん、あの、トイレ行っていいよ?なんなら肩貸すよ?」
 そう言った俺に顔も向けずにちゃんはゆっくり頭を振った。
「ちが、そうじゃないの、あの、…そっちじゃない、から」
「こういうときは恥ずかしがらなくてもいいって。トイレ行こう?」
「ちがう、あの、………女の子の、日で…これも恥ずかしいけど、」
「あー、あ、え?」
 俺は勘が悪くないほうだと思っていたけれど、この時は流石に俺って鈍感じゃないかと思った。もしくは気が利かないヤツ。
 ちゃんの言葉からワンテンポ遅れてやっと俺は腹痛の理由に気づいた。
 二回もトイレしておいでって言ってしまったことにも恥ずかしいが、理由を言わせてしまった俺にも憤りを覚える。

 けれど、情けないことに俺は何もできずにおろおろするばかりだった。
 こういうとき、姉や妹でもいればもう少し気の利いたことができたのかもしれないけれど(例えば保健室へ行って鎮痛薬をもらってくるだとか、お腹をあっためてあげるために何かかけてやるとか)生憎俺には小憎たらしい弟しかおらず、今ならばしてあげられたこと、として考えうることの全てを何も思いつかなかったのだ。
 ただ本当に青白い彼女の顔を見て、慌てふためくばかりだった。

「どうしよう、大丈夫?」
 俺は思わず彼女の背中に触れた。まだ体操服姿のちゃんは触れるとふわっと柔らかくて、そして布地の薄さに気づいてしまって、こんなときだというのにドキドキしてしまった。ごめんね、ちゃん、男の子はきっと皆そうなんだ、と聞こえもしない言い訳が一瞬で頭の中を通り過ぎた。
「うん、ちょっと…休めばへいき」
「ほんとう?」
 顔を覗き込むと、うっすら汗ばんでいて大丈夫そうに見えない。いつもは緩やかなカーブを描く眉がきつく硬く寄っていた。
「全然大丈夫そうじゃないじゃん!どうしよう、保健の先生呼ぶ!?」
「ちょ、やめてよ…お腹あっためておけば治るから…」
「なんか俺することない?毛布借りてくる?」
「うん………」
「分かった!借りてくるし!ちょっと待ってて!」
 俺はそう言い残して、走り去ろうとした。が、柔道着の端をちゃんが掴んでいて、勢いよく畳に尻餅をついてしまう。
「なっ、何してんのアンタ!」
「もう保健室閉まってるよ。いいから、もうこんなことで」
「そんな、アンタこんな痛そうなのに」
 俺はどうしたらいいか分からない。何かこの子を温められそうなもの?といっても季節は初秋。衣替えもまだなのだから上着もない。ふとそこで俺は自分の荷物の中にバスタオルが入っていたことを思い出した。いつも練習後にシャワーをあびるために持ってきてある。良かった。あれがあった。慌ててスポーツバッグを引き寄せ、中身を取り出して広げる。
「これ、巻いてみて、まだ使ってないから」
「ありがとう…」
 蹲るちゃんの背中にタオルをかけると、彼女はちょっと笑ってそれに包まった。それでも落ち着かない俺は彼女の背中に触れる。
「さすっても、だいじょぶ?」
「…うん、ありがと」
 俺が小さいとき、腹が痛くてトイレで泣いていたことがあった。すると母親が驚いてやってきて、落ち着くまで背中をさすっていてくれたんだ。ああいうときの母親の手ってすごい。ハンドパワーがあるのかな。それだけで安心する気がする。そこまで俺ができるかどうかは分からないが、手の温度が彼女に伝わるように、温められるように、念をこめてさすった。

 しばらくそうしていると、ちゃんが少し動いた。続いて、ふうっと聞こえる程大きく息を吐き出している。俺はどうかしたのかとまたおろおろし始めた。ダメだ俺、落ち着け!
「ありがとう。ちょっと良くなった。やっぱあっためるのが一番楽だね」
「本当?無理すんなよ。じゃあ俺、後は片付けるからアンタはそこにいて」
 彼女の背中に置いていた手を離して、俺は立ち上がろうとした。ら、また何かに引っかかった感覚がして、尻餅をつく前に立ち上がることをやめた。柔道着の端はやっぱり彼女の手の中に入りこんでいた。
 俺の視線に気づくと、ちゃんはぱっと手を放した。かすかに頬も赤みが差していて…。ああ、顔色良くなったな、という感想と、これってもしかして…という変な期待が胸の中にないまぜになる。
「何?心細いの?」
「ち、ちがう、ちょっと力んじゃって掴んだままだったの」
 慌ててちゃんは俯いた。ちょっと、耳が赤いんですけど。何でそんなにかわいこちゃんアピールするんですか。可愛いって思ったら思う壺なんじゃないんですか。
 俺は顔がニヤけるのを抑えられなかった。そのままちゃんの顔を覗き込む。頬はもう白く戻っていたが、上目づかいで睨まれた。睨まれても怖くないどころか可愛いとさえ思えてしまう。
 じっと見ているちゃんを見返す。そのまま子供をあやすように頭を優しく撫でた。彼女の眉間に寄っていたしわが消える。

「もうあとちょっと、すぐ戻るから待ってて」
 もう残った仕事も雑巾を片付けるぐらいのことだ。部活動員用の洗濯機まで持っていくのが最後の仕事。いつもはちゃんが持っていっている。本人もそれは把握しているので彼女は小さく頷いた。すこしその顔が不安気に見えるのは俺の自惚れだろうか。
「ダッシュで行ってくる!」



 柔道部の部室兼練習所は他の部室が連なる場所からは距離がある。例の洗濯機はたくさんの部室のあるプレハブ傍にあるから、俺がどんなに走っても往復10分ぐらいはかかる。その間にまた彼女が腹痛を訴え始めたらと思うと心配だった。あれが世の女性の普通なのだとしたら、俺は帰ったら母親にも優しくしようと思えた。女性は大変だ。
 そう思えたところに女子バレー部の部員であろう子が一人で雑巾の山を持っていた。ちゃんを待たせるのは少し気にはなったが、心がキレイな今の俺には見捨てるのも気が引けて、結局手伝った。「ニーナくん、やっさし〜」と言われて悪い気はしないもんだしな。



「ただいま〜」
 部室の扉をノックすると中からはーい、と返事が聞こえた。引き戸をがらりと開けると、ちゃんは既に制服に着替えていた。顔色は変わらず良くはなかったが、振り返った表情は明るかった。
「お帰り!遅かったね。私も手伝えばよかったんだけど…」
「いやいや!病人にそんなことさせられないっての。
 それに、バレー部の子も雑巾出すところだったからさ、手伝ってただけだよ。
 ごめんな遅くなっちゃって」
 俺はちゃんの差し出してくれたタオルで汗をぬぐった。手渡してくれた彼女は渋い顔をしている。俺、嫌な気にさせること言っただろうか?
「なんか、変なこと言っちゃった?俺」
「……ううん」
 いや、ううんって顔じゃないからそれ。
「じゃ、またお腹痛い?」
「ううん、ニーナ、シャワーしてくる?」
 俺は少し屈んで彼女の顔を正面から見据える。さっきと同じような目。けれど俺にはそんな顔をされる理由が思い当たらなかった。まさか、遅くなったことか?目を合わせたまま俺は首を傾げた。
「なあ、何怒ってんの?」
「怒ってないよ?」
 ふいとちゃんは目をそらし、俺から離れた。そして荷物の用意をしている。
「なんか……ううん、なんでもないや」
「何だよそれ」
「はい、これ本当にありがとう。シャワーしてきて?」
 ちゃんは口調こそ優しかったが、俺のバスタオルをつっけんどんに渡してきた。
 これが怒ってない人の態度だろうか?急に何なんだろう。さっきまでの可愛らしい彼女はどこへ行ってしまったというんだ。会話を遡って考えても彼女を怒らす発言などした覚えもない。行動だって何も粗相は無いはずだ。
「ちょっと、さすがに何が理由か分かんないのに怒られるのは俺だってムカつくんですけど」
「……ごめん、別に怒ってる訳じゃない」
 わずかに口を尖らせたようにちゃんは言った。
「じゃあ言ってくれてもいいんじゃない」
 俺は声のトーンを落とした。ここで俺までイラついてもいけないとは頭では思うが口が勝手に動いてしまった。ちゃんは青白い顔で唇を噛んでいる。陰り始めた陽が俺と彼女の影を畳の上に長く伸ばした。

「子供っぽいって自分でも思ったから、言いたくない」
「あのね〜…………」
 俺は荒っぽく自分の頭を掻き毟った。イライラしている。いつもは誰に対してもイラついた所を見せるのは恥ずかしいと思っているし、ましてやちゃんになんか絶対に見せたくないと思っていたのに、まさか本人にイラっとするとは。大きく息を吸って、吐いて、気持ちを落ち着かせる。

 そこで小さく彼女が何かを呟いた。
「…く言うから、誰にでも言うように思える」
「え?」

 ちゃんは青白い顔のまま眉を寄せていた。それはさっきの腹痛のときの顔とは違い、泣きそう、と形容すべき顔で俄かに俺はうろたえてしまう。
「な、何?」
「だから〜ニーナは軽く言うから!誰にでもそんなこと言うし、誰にでも優しいし、
 そういう心配だって私だけにしてる訳じゃないし、
 誰が同じ状況でも優しくするんだろうなって!そう思っただけなの!」

 泣きそうだった顔は目の端を吊り上げて今度は完全に怒っている顔だった。これはいわゆる逆切れというヤツじゃないか。そう感じたあとで彼女の言葉を反芻してみる、とふとある単語が浮かんできて、自然と頬が緩むのを感じた。

「それってアンタ…」
「もう言わないでホントに…」

 今度は消え入りそうな声で言うと、ちゃんは両耳を塞いでしゃがみこんだ。
 さっきまで青白かった顔。頬には赤みが差している。
 俺は彼女の前に立つと、同じようにしゃがみこむ。彼女は顔を伏せたままで肩をぴくりと震わせた。俺はその柔らかい栗色の頭を撫でる。できるだけ優しく。気持ちよ伝われ、と願いながら。
「誰にでもするかもしれないけど、でも下心があるのはアンタに対してだけだよ」

 そう俺が言うと彼女は怪訝そうな顔でゆっくり見上げてきた。まさに眉根を寄せて、うさんくさいものを見るような目になっていた。深い意味では取らないで、もっと上辺だよ、と念を込める。
「下心ってのは、アンタに、良く思われたいって気持ち。
 アンタに俺のこと好きになって欲しいから。他の人にはそこまで思わない」

 せいぜい、「ニーナくんってみんなに優しいんだよ」って言われるくらいって下心はある。それは他人に嫌われたくないからしているだけのことであって、そう。「特別に好きになって欲しいから」という理由だけで動くエネルギーになるのは、ちゃん、アンタだけなんだから。

 そう俺がぼそりと呟くと、ちゃんは両耳から手を離した。
 ウン、聞こえてるはずだ。彼女の瞳はわずかに潤んでいた。
「ごめんなさい」
「うん」
「ニーナは誰にでも優しいって私も分かってた。
 けれどそれが面白くないなんて、そんなちっちゃい人間じゃないつもりだったんだよ?」
 分かるよちゃん。俺はいつも同じ気持ちだったんだから。
 柔道部のマネージャーとして部員皆に優しい彼女。
 部長の嵐さんには特別優しい(そう見える)彼女。
 俺は毎日と言ってもいいほど、嫉妬していた。まさにそんなちっちゃい人間って思われたくなかったから俺は誰にも言えなかった。言ったところで本人困らすだけだというのも重々分かっていたから。
ちゃんって、独占欲強いのな」
「!ち、ちがう…」
「違うの?俺も同じだからよく分かるんだけどな」
 彼女の下ろされた両手を取った。ひやりと冷たくて、俺の熱さには心地よかった。
「俺も、俺だけに優しくしてほしい」
「ニーナ…」
「皆にドリンク渡すのやめて、俺だけにちょーだい?」
「そ、それは…」
「ってのは冗談だけど、そういうような気持ち、分かるって、こと」
 少し、握った手に力を込めると、彼女はおずおずと握り返してきた。

「……じゃあ、皆に渡さないのは無理だけど、ニーナに一番に渡す」
「えっ」

 返事に驚いて、俺はちゃんの顔をまじまじと見つめた。もう瞳は潤んでこそいなかったが、上目づかいで俺を見上げて言うセリフとしては最強兵器だとすら思った。一番、いいの?
 何度か瞬きをして、見つめ合った。
「ニーナも、私に一番優しくしてくれる?」

 この破壊力。マジパネェ。
 さっき言ったはずなのに、また言わせる気か。もしくは契約させる気か。俺はいつでも契約したっていいんだけど。
 俺は片手だけ解き、その手でちゃんの瞼を閉じさせた。されるがままになっている彼女の唇に返事の代わりにそっと自分の唇を重ねた。

















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