穏やかに君の名を










 こつん、音がする。
さん」
 教室の廊下側にある窓から自分を呼ぶ声が聞こえて、私は顔を向けた。慌てて窓を開ける。こもった教室内の空気がさっと流れ出した。代わりに冷たい空気を顔面全てに感じる。
「穂波くん」
 私はちょうど一番廊下側の席で、隣のクラスである彼はこうしてたまに廊下の窓から直接教室内の私を呼ぶ。席替えしたら、こんなことができないんだなって思うと寒くて冷える、ヒーターからは遠いこの場所から変わりたくはないとまで思ってしまう。さらりと彼の透き通るような金色の髪が揺れて光った。
「どうしたの?」
「うん、世界史の教科書忘れちゃったから貸してくれない?」
「なんだぁ。いいよ、どうぞ」
 穂波くんは窓枠に頬杖をついてにっこり笑った。笑顔もいつも美人(穂波くんはもちろん男性だけど、こう形容するのが一番しっくりくる)だな、と私は目を逸らしながら、机の中をまさぐった。手探りで世界史の教科書を探し当て、膝の上に引っ張り出す。
「はい。うちのクラスも午後あるから、お昼までには返してね」
 真っ直ぐ長い腕が目の前に伸びてきたので、私は教科書を軽くその上に置く。すぐに手の中の重さは消えた。顔を上げると、穂波くんのキレイな笑顔がそこにあった。
「うん、じゃあお昼一緒に食べよう?学食で会おう」
「分かった」
「じゃ、ありがとう」
 穂波くんはそう言うとさっと身を翻して廊下へと戻っていった。すぐに窓に阻まれて姿は見えなくなったけれど、私はしばらくぼうっと廊下の向こうへと視線を投げたままだった。
(堂々としたものだなぁ)



 あの悪夢のような廃校から生還して2ヶ月が経った。事件の後しばらくはなかなか登校することもままならないような状況だったけれど、こうして日常に戻ることができて、それに、あの事件がきっかけとなって私は穂波くんと仲良くなることができた。
 それはとっても嬉しい。事件の生んだ唯一の良いことだったかもしれない。
 こうして彼はランチも誘ってくれるし、時間が合えば学校から一緒に帰る。彼は学校では有名人なのでファンというべき女の子も相当数いるようだけれど、彼女たちも何も言ってこない。多分、彼の様子がストレートで堂々としたものだからだろうな、と思う。
 こないだは学校の帰りに穂波くんのお気に入りの場所だという、小麦畑に連れていってもらったし、そのときに、キス、も、された。
 それ以来、私としては付き合っているのかな?と思ってはいるのだけれど、彼が明言してくれた訳ではない。
(だいたい、そんなこと言ってくれたりはしないよね…)
 でも、たまに周りに聞かれる「穂波くんとさんて付き合ってるの?」という質問には曖昧に答えてしまう。どうも、何て答えていいか分からないからだ。
(私ばっかり、付き合ってます!って言いふらしてもいいのかな。でもこれって付き合ってるって言うんだよね?そうじゃないと、キスなんてしないよね?)
 聞いてみたい、でも彼に聞いて変な顔されたら、どうしよう。私はあの一度のキスで舞い上がってしまった女だと思う?でもきっと彼は誰にでもそんなことする人じゃない。そんなのは分かってる。私には心を開いてくれている。私が変に尋ねてそれを閉ざしてしまうことに、ならないだろうか。
 そう、うだうだと頭の中で考えていると、クラスメートに肩を叩かれて気づいた。
、次移動だよ?」
「わ!ありがとう!」
 言われて初めて気づいた。慌てて次の授業の用意をすることにした。



 授業が終わってすぐに学食へ向かったけれど、既に満員御礼だ。冬場は皆暖かい場所を求めて学食に来るんだろうなぁと私は視線を彷徨わせながら考える。隣の穂波くんは壁に下がるホワイトボードをじっと見つめていた。
「僕、Aランチにしようっと。さんはお弁当でしょ?お茶持ってくから先に席取っといてくれる?」
「うん、ありがとう」
 彼はにっこり微笑むと軽快に人の波をかきわけてカウンターへと向かっていった。私は言われた通りに空いている席を探す。丁度二つ向かい合わせで空いている場所を見つけたのですかさず座って、向かい側には私のお弁当をぽん、と置いた。

「ふふ、さんのお弁当、おっきいよね」
「え!?そう!?」
 手にトレイを乗せた穂波くんは私の向かいに座るなりそう言った。私は慌ててお弁当箱を手繰り寄せる。
「別に普通だと思うけど…。女の子は小さめが流行ってるみたいだけどね」
「そうかな。まぁ別にいいと思うけどね」
 目の端に笑いをにじませて、穂波くんはお箸を手に取った。
 私はなんとなく周りを見渡した。確かに周りの女の子でお弁当を持ってきている子は小さな可愛らしいお弁当箱だ。それは幼稚園生用じゃないのかな?と思う程小さい子もいる。
 そして私はしっかり二段構えのお弁当の蓋を開けた。いつも通り、母の手作り弁当だ。鮭と卵焼き、昨日のおかずの残りの唐揚げ、冷凍食品のグラタンにウインナーはちゃんとたこさん、ごはんにはきちんとゆかりもかけてある。うん、量的には確かに周りの女子高生より、多いかも、しれない。何だか少しだけ恥ずかしくなる。

「今日のAランチは鶏南蛮だよ。おいしそうでしょ」
「うわぁいいなぁ。私も今度学食にしようっと」
「ごはん大盛りもできるしね?」
「え!そんなことしないよ!もう!」
「えー?ホントかなぁ?」
 穂波くんはからかいモードで私を見ている。明らかに楽しそうな穂波くんの表情に私は頬を膨らませて見せた。
「普通だよ、もう!早く食べよ!」
「ごめんごめん。だってさんがたくさん食べるの、好きだから」
 こういうこと、さらっと言うからなぁ。私は恥ずかしくなったけれど、それを彼に気取られるのも癪なので、俯いてご飯をつつき始めることにした。前方から視線を感じるけれど、気にしないでほうれん草の胡麻和えを口に運ぶ。

「…怒った?」
 目だけを穂波くんに向ける。怒ってる訳じゃないよ。どう考えても違うでしょ。照れてるんだよ、って言えれば楽なのだろうけど、生憎口の中には卵焼きが入っているし、周りにはたくさん人がいる。私は口を開かずに首だけ左右に振った。
 穂波くんは明らかにそれと分かるように眉の緊張を緩めた。こういうのを見るにつけ、意地悪を言うクセに可愛い人だと思ってしまう。

「全然怒ってないよ」
 卵焼きをやっと飲み込んで言う。
「こんなので怒ると思った?」
「ううん、怒ってたら僕に付き合ってられないと思う」

 ふと微笑みながら言われたその言葉に私はどきりとする。
 それってそういう意味じゃないよね。人付き合いの意味だよね。
 日本語とは難しい。私は首を縦に揺らした。
「ルナは一々怒るけどね。またそれがちょっと楽しいんだけど…あいつからかうと可愛いんだ」
 急に秋山くんの話になったので何気なく辺りを見回してみると、なるほど、斜め隣のテーブルに秋山くんの後姿を見つけた。体格のいい彼の背中は並んで背を向けている男子たちの中では目立っている。
「秋山くんとは尚いいペアになったってテニス部の先生が言ってたね」
 秋山くんの背中から視線を戻して穂波くんの顔を見ると、彼はこちらが驚くほど柔らかく笑っていた。すっきりした表情、とでも形容したらいいかもしれない。とにかく、そんな表情を引き起こさせた秋山くんに少し私は妬けてしまうぐらい。
「僕も、ルナも、あれからちょっと変わったから。多分、あの夜からね」
 さらっと言う穂波くんに私は俄かにびっくりした。彼の口から例の夜のことが出てくるのは私が感じるかぎり、日常に戻って以来初めてだ。私は余程驚いた顔をしていたのだろうか。穂波くんは私の顔を見て、噴出しそうになっていた。彼は慌てて箸を置く。
「なんて顔してんの?もう取り繕うのはやめたって、言ったでしょ?」
 穏やかな顔で穂波くんは言う。私は無言で頷く。
「まぁ、君のおかげなんだけどね」
 そんなに言われる程のことを私は何もしていない。私は首を傾げた。
「元々、いいペアだったんだよ。…そういえば秋山くんは穂波くんのこと、名字で呼ぶよね」
「そうだね」
 テニス部ではペア同士が打ち解けるためにあだ名を付け合ったりすると穂波くんは初めて話したあの廃校で言っていた気がする。秋山くんのあだ名『ルナ』の由来は後々聞くことになったけれど、秋山くんのような大きな男の子には確かに可愛すぎるあだ名かもしれない。それに反して穂波くんにはあだ名はないのかな、と少し疑問に思ったけれど、秋山くんは率先してあだ名をつけるようなタイプじゃないかもしれない。

 そうして何気ない会話を続けて、気づくとお弁当箱は空になっていた。最後に穂波くんの取ってきてくれたお茶を一口すする。程よくぬるまっていて、お腹がほっとした。
「ふう、ごちそうさま」
「僕もごちそうさま」
 細い外見に反して案外と食べるほうである穂波くんは、通常のランチをご飯大盛りで食べきっていた。ご飯だけでなくて、付け合せのキャベツも大盛りだった気もするし、追加でプリンを二つも買い込んできていた。そのひとつを手に取ると、彼は腕をひょいと伸ばした。
「はい、これはさんに」
「え?……あ、ありがとう」
 昔から給食で出るタイプの農協のプリン。私はそれを受け取って、早速蓋を開けた。上のカラメルソースがつるんと揺れている。何だかすごく懐かしい。
 それから私たちは黙ってプリンを食べた。
 私がプリン好きだって言ったことあったかな。例え私が好きだって知らなくても、穂波くんは私にひとつくれるつもりだったんだろうか。
 何だかそれだけでいい気がした。こういうことが嬉しいのだから。



 今日は委員会があって下校時間が遅くなる予定だと言うと、穂波くんが一緒に帰ろうと言ってくれた。普段は私は授業が終わり次第帰るようにしているので、貴重な時間だ。
 本当は毎日、彼の部活が終わるのを待っていたっていいのだけれど、誰もいない教室に一人でいるのはまだ恐怖を感じてしまう。そのことは言わなくても穂波くんも分かっているみたいだった。

 だから私は中庭にいた。ベンチに座って呆けたように空を見ていると、背中のほうから声がする。
「こんな寒いところで待ってなくていいのに。他にも図書室とかあるでしょー?もう」
「図書室、誰もいなかったんだもん。それに少ししか待ってないから大丈夫」
 委員会が終わったからここにいることをメールで知らせてすぐ、彼は顔を見せてくれた。まだ部活のジャージ姿だった。学校指定のそれとは違う白いジャージは色素の薄い彼にとてもよく似合っていた。キラキラしているように見えて。端的にいうと、かっこいいっていうことになる。その姿を見られて、嬉しくて少しドキドキした。
「もう僕も終わったから、すぐ着替えてくるしあと少し待ってて」
「うん」
 穂波くんが眉毛をちょっと上げた。
「寒いから、昇降口の中で待ってて」
「平気なのに」
「あとその方が部室からも近いし」
「…はぁい」
 これは心配して言ってくれてるのだろうか?何だかくすぐったい。彼は結局着替える間も惜しんで私の様子を見にきてくれたのだろう。自惚れでないとしたら、だけど。ほんわりと胸の中にひろがる幸福感。私はだから寒くても平気だった。



「ルナって呼び方、最初は秋山くん嫌がってたでしょ?トモくんって呼び方じゃ駄目だったの?」
「ええー?なんかそれ気持ち悪くない?男同士でさぁ」
「それは、私が今『くん』ってつけただけだからでしょ。名前で呼び合ってもいいのにーって思っただけだよ」
 小腹が空いたと穂波くんが言うので帰り道のコンビニで肉まんを買って、通りがかりの公園に寄って食べている。12月の公園は誰もいなかった。今日は結構冷え込むほうかもしれない。肉まんから立ち上る温かい湯気をしばらく見つめてから一口、かぶりつくと、すでに外側は冷たく感じた。穂波くんはぽそりと呟く。
「…何か恥ずかしくない?何かね。何か」
 ベンチで隣同士で座っているので表情を伺うには覗き込むしかなかった。私がそうすると、穂波くんは慌てて向こう側を向いてしまった。本当に恥ずかしいみたいだ。
「今は別に何でもいいやってアイツも言ってるし、いいんじゃない」
「そうだね」
 何となく、理解した。
 穂波くんは何でもガンガンと歯に衣着せぬ物言いではあるけれど、実のところはかなりの照れ屋さんなのだ。だからきっと始めに秋山くんと親しくなろうとしたときに、名前で呼ぶのが照れくさかったのだろう。だから強引に自らあだ名をつけて、そうやって自分のつけたあだ名なら呼ぶことに抵抗がないから…だからそう呼んでいるんだ。私は漠然といいな、と思った。それはそういう間柄に対してもそうなんだけれど、何より、穂波くんに特別な呼び方をしてもらえる秋山くんに対して、純粋に羨ましいと感じた。

「(いいなぁ)」
「何か言った?」
「ううん、何でもない」

 心で思っていたつもりだったけれど、小さく呟いてしまっていたようだ。穂波くんの方を見ると、今度は彼もこちらを見ていた。非難がましくじっと見つめられると違う意味でドキドキする。私、彼を怒らせてしまったのかもしれない。

「大体、何で今更こんな話するの?秋山に何か言われた?」
「え?違うけど…」
 穂波くんの声のトーンが少し低くなって、彼の怒りなのか分からないけれど強い感情が滲んでいる。私は頭を少し下げた。
「ごめんなさい。別に穂波くんを非難してる訳じゃないの」
「別に僕も非難されてるっては思ってないし、別に何で今頃こんな話するのかなって思っただけだよ。意味がわからないから」
 本当に秋山くんに何か言われたと思ったのだろうか?表情が少し硬い。私が口を出す問題じゃなかったってことだろうか。
「ごめんね、ちょっと、羨ましかっただけ」
「羨ましい?何が?」
 眉根を寄せた穂波くんがじっと私を見つめていた。改めて言うのが恥ずかしいし、何て思われるか分からないから口に出すのが躊躇われる。でも少しの沈黙、彼は深い緑色の瞳をずっと私に向けていた。彼の手にはもう既に肉まんは無かった。私はもう一口肉まんをかじって、それを飲み込んだ。喉につまらないようにゆっくり飲み込む。

「秋山くんのこと」
「ルナが?どうして、」
「だって、あだ名で呼んでもらえるし…」
「…え?」
 一言言ってしまえば、後はぽろぽろとこぼれるように言葉が出てきた。出てきて止まらない。もしかしたら穂波くん、ひいちゃうかもしれない。頭の隅ではそう思ったのに、話し続ける唇を止められなかった。
「あだ名でも、穂波くんが仲を詰めようって思ってつけてくれたんなら、いいなぁって思った。名字で呼ばれるよりもっともっと親しいみたいだし、それに私だって」
 すうっと隣で息を吸う音がした。しんとした公園に大きく彼の声が響く。
「なにそれ!」
 驚いて身体ごと穂波くんの方へ向ける。彼は自分で思った以上の声量だったのか、口元を押さえていた。見ると、その頬も、耳も、赤くなっていた。
 私はつられて少し声を小さくして続きを言った。
「私ってどういう立ち位置なのかなってちょっと思って、あの、思っただけだけど」
「分かった。何となく、分かった」
 穂波くんは私の言葉を遮るように言って、手の平を私の前にかざした。何となく、伝わったのかな。私の少しだけど不安な気持ち。見上げるようにして穂波くんの目を見つめると、何も言わずに彼は私の両手を取った。ほのかに肉まんで温められた私の手とは違ってひんやりと冷たい。

「えっと、……ちゃんって、呼んでいいってことかな」
「わ!私も、陽介くんって、呼んでもいい?」
「!うん、いい…」
「ふふ」
「何笑ってるの」
「何か、だって恥ずかしい」
「僕の方が恥ずかしい。そういうこと、なんでしょ?君が言うのは」
「そう、です」

 はっきりした言葉はいらなかった。大丈夫、分かる。彼が私のことを好いていてくれているということは彼の瞳の中を覗けば簡単に分かることだった。ゆっくりと近づいてくる彼の瞳をしばし見つめて、私はそうっと瞼を閉じた。



「どうして、さっき怒ったの?」
 私たちは手を繋いだまま帰路に着いた。こうして手を繋ぐのは例の小麦畑を観に行って以来のことだ。冷たい風に晒されてすごく冷たいけれど、心の中はとても温かかった。
 私がそう聞くと陽介くんは少し「んー」と唸った。
「僕も、ルナにやきもち?かな。だって君ってばルナのことばっかり話すし」
「え!」
「ルナのこと庇うみたいに言うなんていいなールナのくせに!って思った」
 笑いながら言う陽介くんはほんのりと声に恥じらいを隠していた。既に薄暗いのでよく分からないけれど、繋いだ手を一度強く、握ってきた。私は抑え切れず、口の端から笑い声を漏らす。
「何か嬉しいね。やきもち妬かれるのって」
「何言ってるの、君は」
 人気のある陽介くんを見ながらいつも妬く側の立場である私としては新鮮な気持ちだ。でも彼も小さく何度も頷きながら言う。
「そうだね。ま、確かに。対象がルナだってのがなんとも言えないけどさ。っていうかさっきからルナのことばっかり喋ってるよね、僕たち。アイツ今頃くしゃみ止まらないんじゃない?」
「あはは!」

 ひとつ、一緒に仲を詰められたかな。と私は繋がれた手を見つめた。私の視線に気づいたか、陽介くんは寒い?と聞いて、手を繋いだまま、自分のポケットへ手を入れた。少し引っ張られて私はよろける。
「ごめん、大丈夫?」
「大丈夫。あったかいね」
 見上げた彼は優しく笑っていた。
































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