全くもって、アリーナには初めての感情だったし、この気持ちをどうしたら良いかも分からなかった。気にしないでおこうと謎の感情から目を逸らせども、やはり頭の中を占めるのは先刻のクリフトの笑顔だけ。 ほのかに想う 明日は天空の塔と言われている不可侵の場所へと挑むことになっている。もしかしたらすぐに地上へと戻ることができないかもしれない、と考えていたエリクは、それならば、とトルネコの家族もいるエンドールにて羽を伸ばすことを提案し、ルーラを利用して一行はこの街へと舞い戻ってきたのだ。そして思い思いの夜を過ごすことになった。 そこでアリーナはお気に入りであるモンスター格闘場のあるカジノへとクリフトを誘った。無論、誘わずとも彼は自分が一人でカジノへ足を運ぶことを良しとしないだろうことは分かっていたので、一緒に来ることになるのだろうな、とアリーナは思っていたが、丁度その場にマーニャもいたので三人連れ立って行くことになったのだった。 実際の戦闘と、格闘場で席について観戦するのは全く違うが、それでもやはり、アリーナはこれが面白いと思っていた。魔物に「スポーツマンシップ」というのがあるのかどうかは分からないが、息の根を止めるまでは戦い合わないようだと気付いてみたり、観客席の見知らぬ誰かと一体となって応援したり。そんなことも楽しみながら、三試合目が終わり、休憩をしようと思った頃だった。 「あれ?」 ようやく、お目付け役であるクリフトが側にいないことに気付く。 マーニャとはカジノの入り口で別れたので、アリーナとクリフトは並んで隣の席に座っているはずだった。その隣の人物がいついなくなったのか、試合に夢中で見入っていたアリーナはついぞ気付かなかった。 「どこか行ったの、かしら」 自分も歓声を上げてからからになった喉を潤そうと腰をあげかけ、また違うことに一つ気付く。 「あ、ゴールド持ってなかった」 やはり、クリフトを探さぬ訳にはいかない。何とか次の試合が始まる前には戻ってきたいと逸る気持ちを抑えながら、アリーナは急いで席を立った。 エンドールのカジノといえば、世界一の娯楽場だ。広い敷地内には格闘場以外にも、スロットコーナーやポーカーなどのカードゲームもある。まだまだ他にも楽しむものはあるのだろうけれど、生憎アリーナは興味がなかったのでそれぐらいしか知らなかった。その中で彼がいそうなところといえば、マーニャが向かったであろう、スロットコーナーと、お手洗いぐらいしか思い当たらない。先に場所が分かっている、お手洗いへとアリーナは足を向ける。 すれ違う人を気にしながらも、いつも見慣れた緑色の法衣は目に映らない。細い通路に入りかけたところで、意識の中にあったその法衣を見つけ、アリーナは身を硬くした。隣に女性がいるのに気付いたからだ。 クリフトだ。 いつもなら、すぐに声をかけてしまうところなのに、今日に限っては声が全く出なかった。もしかしたら、先刻の格闘場で声を使い切ってしまったのかもしれない、と彼女は思う。 何気なく身を通路の角に寄せる。向こうの二人からは見えないように。けれども覗きこんでしまう。 隣の女性はマーニャの着るそれに似ている、踊り子の衣装を身にまとっていた。後ろ姿しか見えないが、ちらりと見えた横顔はやはり見覚えが無い。けれども、二人は親しげに話している。クリフトが多少、大げさなくらいに頷いているようにアリーナには見える。横顔は楽しそうな、笑顔。 時間にしてみると、数分だったのだろうか。アリーナにとっては数時間にすら感じられたその談笑はふと頭を互いに下げあって、終わりを感じさせた。最後にキレイな踊り子の女性はクリフトの頬に自分の頬を寄せてくっつける。それを目の当たりにして、アリーナは思い切り踵を返していた。 (何をしているの。僧侶のくせに。何を!) アリーナは思いがけない衝撃を喰らったように感じる。胸が痛くて、痛くて、夢中で走っていた。 気付くとエンドール城をぐるりと囲んでいる堀が彼女の目の前にあった。見事に手入れが行き届いた植え込みが堀をさらに巡っていて、ちょっとした憩いの場になっているようだ。アリーナは呼吸を落ち着かせると、なるべく目立たないと思われるところに座り込む。 周囲には恋人同士と思われる二人組みが仲良く肩を寄せ合って座っていたり、片や一人でぼんやりと月を見上げている老人なども目についた。それを見渡し、アリーナは膝を抱え込むと、地面の草をつついたり、つまんだり、引っこ抜いたり。手を遊ばせながら、思考の波に乗った。 (こんなに面白くない気持ちなのはどうしてなんだろう。クリフトがあの人と仲良くしてたから?) 漠然と、自分に対するクリフトとブライの態度のことを考えていた。 元々、一国の王族である自分に仕える身分であった二人は旅に出る前も、後も、その態度を変えることなどなかった。だからアリーナは姫然として振舞うことが当然だと思っていたし、そのままでいた。 だが、自分の側を離れれば、従者だって一人の人間であり、男だというのも頭では分かっている。女性と仲良くすることだってあるのだろう。それに対して面白くない、などと思うのは狭量だと分かる。 けれど、この感情は一体なんなのだろう。 クリフトのあの嬉しそうな笑顔を見たときに、胸の奥が強く紐で引き縛られるような感覚がした。 二人の顔が近づいたとき、そのまま視線を向けていることができないと思った。 例えばマーニャがクリフトをからかう為に必要以上に近づいたりすることもある。 それに対しては逆に仲間と共に彼をからかうぐらいの気持ちであるのに。 アリーナは被っていた帽子を外し、そばに置くと、勢いよく頭を掻き毟った。 理解できているのに、分からない。気持ち悪い感情。 どのくらい、そこでぼんやりとしていたかはアリーナには分からなかった。 「姫様?ああ、やっぱり姫様。探しましたよ!」 軽く息を弾ませて、クリフトがアリーナの側に膝をついた。突然、思考を占めていた本人が目の前に現れ、アリーナは感情を乱されたと思った。つい、顔を背ける。 それに気付かなかったのか、クリフトは大きく息を吐いた。 「心配しましたよ」 彼は姫のその態度で『何かに怒っている』と気付く。ただ、その何かには心当たりがない。できるだけ神経を逆撫でしないように、姫ともあろうものが夜、一人でこんなところをふら付いているだなんて、と本当は小言の一つや二つを忠言しようとしていたのを堪えていた。 一方でアリーナはクリフトが吐く息にすら苛立ちを覚えていた。よくもまあ、人の気も知らないで。ただ、そこまで考えてふとこの気持ちを知られてはいけない、とも思う。 しばし沈黙が続き、それを破ったのはやはりクリフトの方であった。 「少し冷えてきました。もう宿へ戻りましょう」 その優しげな物言いに無性に駆り立てられ、アリーナはついぞ口を開く。 「何なの。何だかご機嫌みたいじゃない。そうよね。だって美人なお姉さんと仲良くなれて、楽しかったわよね!」 刺々しく吐くその言葉に、口にした本人が嫌な顔をした。こんなこと、言うつもりではなかったのに。そう顔に張り付かせて俯くが、言われたほうであるクリフトはというと、呆気に取られたようなそんな顔をしていた。 「お姉さんと、仲良く、ですか?」 「とぼけちゃって!私、カジノで!こっそりと通路で顔寄せてるの、見たんだから!」 「見て、いらっしゃったの、ですか?」 少し間を置いて、掠れそうな声でクリフトは言う。それに対してアリーナは俯いたまま、頷いた。 「飲み物を買おうと思ったらクリフトいないから。だから探してたら、偶然ね。とーっても顔が緩んでいたわよ。とろーっとした顔しちゃって。だらしないったらないじゃない!」 まさか自分からつらつらとこういった文句が飛び出るとは思ってなかった。こんなことで怒るなんて、間違っているのに。それは理解しているけれども、一度口を割った言葉は止まりそうになかった。 俯くアリーナはクリフトの顔は見られなかった。このまま、宿まで走っていってしまおうか。何しろ脚力には自信があるつもりだったので、彼よりも早く部屋に飛び込んでしまえば今日のところはもう顔を合わせることもない。明日になれば頭も冷えていることだろう、そう考えを巡らせていると、頭の上から息が漏れる音を聞いた。 笑っている? 勢い顔をあげると、案の定。笑いを堪えようとして口元に手を当てたクリフトと目が合った。アリーナは更に自分の中の堪忍袋に怒りが溜まりこむ気がしていた。 「何が、可笑しいの」 「いえ、あの、姫様。彼女はですね」 そこで一旦言葉を切ると、クリフトは手をおろし、気持ち背筋を伸ばした。 「幼馴染、とでも言えばよいのか。私のいた修道院の子なのです。随分前に、踊り子に憧れてサントハイムに来た旅芸人の一座に弟子入りしていったのですよ。今、エンドールで公演をしているらしく、偶然カジノでばったりと」 静かに抑揚のない声でそう言われ、アリーナの堪忍袋というものが音を立てて萎んでいった。 そうなると、今度は理解のない主とも思われる行為をしてしまったことに、頬が熱を帯びてゆくのを感じる。アリーナは頬へ手を当ててまた俯く。 「そうだったの…………はぁ、ごめんなさい」 「いえ。姫が謝ることでは」 「ううん。私、我儘な主だわ。私、そういうのって寛容だと思ってたのに」 「私は嬉しく思いますよ」 「え?」 呟くように謝罪したアリーナに、クリフトは声音に笑いを滲ませて言う。なぜ、という意味を込めて、アリーナは眼前の人物を見上げた。彼は嬉しそうに、口元をほころばせて言う。 「それは姫様がヤキモチを妬いてくださったのでしょう?私と彼女の仲を誤解して。私にとってはそれはとても喜ばしいことですから」 言い終えると、幾分、高揚していたのか、彼の頬はほんのりと赤く染まる。アリーナはそれを見つめて、先刻とは打って変わって心が躍るのを感じた。 「よく分からないけれど、ヤキモチって普通は主従関係に無いわよね」 「多分」 「じゃあ、何だか変、じゃない?」 「そうかもしれませんけれど。姫と私さえ良ければ、それでよろしいのでは」 アリーナは首を傾げた。二人は同じ気持ちということなのだろうか。 彼女はそう思い至ると、今度は余計に胸が苦しくなった。それでも先刻の引き縛られる感じとは全く違い、柔らかく握られているような、くすぐったさもあると感じる。 さあ、とクリフトが片腕をいざなうように伸ばす。アリーナは何の躊躇いもなく、それに掴まった。 宿へ戻るまでのたった数分。アリーナはふわふわとした足取りなのを感じ、この一連の感情を人が『恋』と呼ぶものなのだなあ、と微かに本能として気付いていた。 |