ウエハースとキャンディ 教室に先生が一歩入ってきたときから、気付いていた。 窓の外では風が吹いていた。それは教室内に流れ込むと少しひやりとする。午後の授業中にこんな心地よい風が吹くなんて、夏ももう終わってしまったのだなあ、と感じていた。 「なぁにぼーっとしてるんだ小波!!」 「はい!!」 突然呼ばれた自分の名前に私は思わず返事をする。途端、私の意識が飛んでいたことに自ら気付いてしまう。心臓が跳ねるように痛い。 周囲からはくすくすと笑い声が漏れた。私は恥ずかしいのと情けないのとで頭を下げる。折角の大迫先生の授業中だったというのに……。目の前に腰に手を当てて立つ先生を見上げると、笑顔だった。 「もうすぐテストなんだからなぁ。気ぃ抜くなよ?」 先生はぽん、と手にもつ教科書で私の頭を軽く叩く。小さく「すみませんでした」と謝ると、先生は再び皆に振り返って声を大きくした。 「皆も気ぃ抜くなよー。じゃ、続ける。―たれゆえに、乱れそめにし……」 よく通る声に私は意識を集中しようとする。数分間サボっていた板書もしないと。授業中は忙しくしているに限るのだから。物思いにふける暇がないほどに。 授業が終わると大迫先生は教卓で少し生徒からの質問に答えて、教室をあとにした。後姿がよく見える。 (今日も寝癖) 心の中だけで呟いてこっそり笑う。先生が歩くのにあわせて、後頭部の髪の毛がぴこぴこと跳ねていた。教室の扉を先生が通り抜けるまで、それを目で追う。 大迫先生はとても良い先生だ。 今時珍しいぐらいの熱血先生。いつも生徒のことを考えている。それがこちらにも伝わってくるぐらいの熱い想いの持ち主。 一年目、初めて担任の先生になってもらったとき、きっと楽しい一年になるだろうな、と思った。その予想は外れることがなく、体育祭や文化祭、行事のときは学年で一番といってもいいぐらい、盛り上がるクラスだった。それは大迫先生のおかげなんだろうなと思っていた。 二年目、また担任の先生だと知ったとき、純粋に嬉しかった。 クラスが離れてしまった友達にも羨ましがられたものだ。「大迫ちゃんのクラス楽しいからいいよね」とよく言われた。全くその通りだと思う。 三年目は進路でクラスを決めるので、大抵クラス替えはない。よって担任も持ち上がりだった。なので結局三年間大迫クラスに所属していた訳になる。 三年間、毎日顔を合わせる人。 「おーい、小波」 「はい」 昼休みに入ったときだった。お弁当を広げはじめた私は教室の扉のところで私を呼ぶ大迫先生の姿を目に入れた。 「お前、進路希望出したか?」 「あ……」 一緒にご飯を食べていたクラスメイトの女の子に「提出期限、昨日だったじゃん!」と突っ込まれる。私はしまった、という顔を作った。そういえばそうだった。少し時間をかけて考えようと思っていたら、すっかり提出するのを忘れてしまっていた。 「すみません。忘れてました」 「じゃあちょっと放課後来てくれ。直接でいいから」 「はい」 そうか。進路かぁ。 ふとさっき思い出した二年間を振り返る。急に現実を感じ、口に入れた卵焼きが胸につまってしまうような気がした。 放課後、先生はご丁寧に終礼の後、「忘れず来るように」と念を押してくれた。忘れてなんかいないのに。それだけで少し、嬉しい。先生が気に掛けていてくれるのが分かるから。 それでも職員室に向かう足取りはふわふわしたものでは無かった。言わば、現実への道を歩いている訳で。できれば高校を卒業なんかしたくない。そう思えるほど高校生活が楽しかった、ということでそれはいいんじゃないだろうか。誰にでも等しく来るはずの進路相談に私は憂鬱になるなんて、ちょっとおかしい、と冷静な私は思った。 職員室の扉をノックして開ける。大迫先生は自分の机の前で書類を片付けながら顔を上げたところだった。 「失礼しまーす」 「お、来たな。ちょっと待てよー」 そう言うと先生は私の側へファイルを抱えてやってくる。 「こっち。ついて来い」 「え?は、はい」 慌てて先生の後につく。大迫先生は職員室を出ると、その隣の進路指導室の鍵を開けている。なるほど。これは真面目に進路指導なんだ、と再び胸が重くなる気がした。 初めて入る進路指導室はちょっとした応接室のようになっていた。といっても、長机にパイプ椅子が並べてある訳で、豪華ではない。壁には本棚が並べてあり、いわゆる「赤本」という冊子がたくさん並んでいる。その隣にはパンフレットのようなものやファイルが背を向けてキレイに揃えてあった。 落ち着かない雰囲気にきょろきょろとしながら先生を見ると、腰掛けろ、とジェスチャーをしている。私は慌てて先生の向かい側の椅子に座った。 「なんか本格的ですね……」 「本格的も何も。お前、受験生って自覚あるのかぁ?」 私の言葉に先生は眉を崩して笑った。 「小波は何だかぼんやりしてるところがあるからな。進路希望も忘れるし。お前だけだぞ」 「えっ……すみません」 「ま、ついでにちょっと話せたら、と思ったぐらいだ。どうだ。決まったのか?」 ん?と続けて、先生は穏やかに笑った。机ひとつ隔てて、先生が微笑んでいる。いつもの教室よりも断然近い。ふとそんな風に思ってしまって、急に私はどきどきすることになってしまった。意識しすぎな自分が恥ずかしい。 「あの、えっと、できれば、一流大学に、と」 「うん」 「目指してみようかなぁ、と」 「なるほど。いいんじゃないか?今のままで行ければ、合格圏内ではあるし」 それを聞いて、私はふっと力が抜けるのを感じた。やっぱりちょっと希望を伝えるのは緊張していたみたいだと気付く。先生も目を合わせて笑う。 「なんだぁ?緊張してたのか?」 「はい、ちょっと」 空気が震える気がした。 先生がいつもとは違って小さく笑ったからだ。教室で笑うときは大きく口を開けてあはは、と笑うのに、今はくす、と小さく笑った。 「私、卒業したくありません」 その小さい笑顔は一瞬で消えた。 ぽろりと呟いた私の一言に先生は仰け反るように椅子にもたれた。背もたれが耳障りな音を立てる。 「どういうことだ?」 私はスカートのひだを見つめていた。 先生の顔を見ずに言う。 「冗談です。本当に、それは冗談です。でも、すごく今のクラス楽しくて、卒業するのが、寂しいんです」 本当だった。すべて本音だ。言わなくていいことは言わなかったけれども。 また空気が揺れた。息を漏らすように先生が笑い、その後ふいに私の頭をくしゃっとしたのだ。びっくりして私は顔をあげる。急に私の頭をかき混ぜたその手はすぐに離れていった。少しの圧力がまだ残っている気がして、乱れた髪の毛を整える振りをしながら同じところに触れた。 「青春だなぁ!先生、嬉しいぞぉ」 眩しい、太陽のような笑顔を浮かべて先生はそう言った。 笑って、首を動かすたびに、朝見えた寝癖がゆるっと揺れる。一瞬、直してあげたくて手を伸ばしかけて、すぐに止めた。きちんと椅子に座ったまま、先生の声を聞く。 「そう言ってくれるのは先生、とっても嬉しい。あの本、貸した意味があったみたいで本当に嬉しいんだ」 違うんです、先生。もちろん、毎日が楽しいのは嘘じゃない。でも私が一番寂しいのは先生と会えなくなることなんです。 そう言えたらどんなにかいいのだろう。でも絶対に受け入れてもらえるはずのない気持ちだ。さっき伸ばしかけた腕をそのまま止めずにいられたら。 「分かってるさ。現実を見つめるのは大変なときもある。この時期のお前らは色々考えすぎて不安になることも多いだろう。でも、そんなときの為に俺たち教師がいるんだぞ?」 先生は背中を預けていたパイプ椅子を鳴らすと、前かがみになって、長机に肘をついた。その視線はどこか遠く思える。もしかしたら、先生自身の同じようなときを思い出しているのかもしれない、と感じた。 「はい。先生に色んなお話、聞きたいです」 「そうだな。明日のHRにでもちょっと話してもいいかもな」 「はい!」 うんうんと先生は頷くと、口を開く。 「じゃあ、小波は一流大ってことで、進めていっていいな」 「はい」 「今日はこれでいいぞ。気をつけて帰れよ」 「はい。じゃあ失礼します」 私は立ち上がった。机に椅子をしまい、先生にひとつ礼をして、部屋を出ようと背中を向ける。 「あ」 先生の声に私は振り向いた。視界に入った大迫先生は私の方に指をさして言う。 「そういえば朝から思ってたんだが、お前後ろ寝癖ついてるぞ。一日中そうだったんだな」 「!!」 朝から?朝から、だなんて。 私は慌てて髪を手櫛で撫でつけて、先生に向き直る。 「そういう先生だって、朝から寝癖、ありますよ!!先生こそ、私、女子なんだから言ってくれればいいじゃないですか」 「いや、なんかわざわざ教室で言うのもお前に悪いかと思ったんだが。先生もあったか?どこだ?まだある?」 そのまま先生は、自分の頭をがしがしと手当たり次第にかき混ぜている。 私は急いで逃げるように進路指導室を出た。 「失礼しました!」 先生が朝から気にしてくれていた。そのことがくすぐったくて、甘い綿飴のようなふんわりと嬉しい気持ちになって、恥ずかしかったのだ。後頭部の髪の毛を握って軽く引っ張る。手首で触れた耳たぶは熱くなっていた。 |