ケーキは甘く。雨は苦い















 雨が降る日はどうしたって、彼女のことを思い出してしまう。
 何をしていても、ふと雨音がするたび、軒下で出会ったときのことが記憶から引きずり出される。

 大粒になった雨のしずくに慌てて駆け込んだどこかの商店の軒下。いつもは使わない道でたまたま目についたからだけれど、今ならあれは運命だったんじゃないかと、思う。
 気付くと少し離れたところに、同じような雨宿りのお客さんがいた。少し不安げに空を眺めている彼女の横顔が気になって、近づいてみたのだ。
(羽学の、制服だ)
 髪の毛から一筋、しずくが垂れる。
 このままだと、風邪をひいてしまうだろうと思い、ちょっとだけ、勇気が要ったけれども、彼女に声を掛けたのだ――。



「ユキ?何ぼーっとしてんの?」
「え?」
「最近、よくぼーっとしてない?」

 ふと声を掛けられて、気付いた。既にホームルームは終わっていて、教室内はざわめき、皆帰る支度をしていた。すうっと肌寒く、扉が開き、何人も帰路につこうとしているのだと分かる。

「あ、ごめん、何か言ってた?」
 隣の佐藤に返事をする。呆れたような顔の彼女は、溜息と共に返してくれた。
「生徒会役員は、会議室に来てくれって。ユキの返事無いから先生変な顔してたよ」
「ああ、そうだったっけ。助かった。ありがとう」
「うん、ぼーっとするのも大概にね」
 そう彼女は言うと、さっとカバンを持って、席を立った。僕は二度首を縦に振り、答える。
「わかってるよ」
「じゃあね」
「うん、じゃあ」
 自分のカバンを机の横から持ち上げ、教科書をつめる。そうか、今日は職員含めた会議の日だった、と思い出す。
 確かにぼーっとしていた。窓の外を眺めて、一つ息を落とした。
 雨が降るから、思い出してしまうのが、いけない。



 会議の資料を揃え、クリアファイルに入れる。持って帰ってからもう一度目を通そう。腕時計を見て、いつものバスにはもう間に合わないことを確認した。
「紺野、どっか寄ってく?」
 まだホワイトボードを消していた、書記の紺野に声を掛ける。なんとなく小腹が空いたし、バスに間に合わないのなら寄り道して帰ろうかという算段だった。しかし、手を止めて振り向いた彼は申し訳なさそうに眉毛を寄せていた。
「すみません、僕これから塾なんです」
「なんだ、そうか。じゃあいいよ」
「すみません、また今度に」
 一人でウロウロするのも、悪くはない、と思った。丁度本屋で参考書も見たかったところだ。やっぱり寄り道をして帰ろう。そう心に決めると、窓の戸締りを確認して、紺野と連れ立って会議室を後にした。



 何だか、甘いものが食べたいな、とふと思う。そんなにしょっちゅうは食べないけれど、今日は何となく生クリームのものが食べたい、と胸の内に浮かぶ。頭が糖分を欲しているのかもしれない。傘の内側、雨垂れを耳にしつつ、商店街で人気のケーキ店の前へ足を向ける。
 ガラス張りのその店は、いつも新商品が出ると、人が並ぶ程のお店だった。でも今は外から眺めた感じだと、特に混んでいる様子はない。
 でも、
 何となく、入りづらかった。

 一般的に、女性同士かもしくはデートで使うようなところ、というイメージである、こういうケーキ屋には一人で入ったことはなかった。
 甘いものの気分だったけれども、無理をしてまで、というつもりもない。いつものウイニングバーガーでちょっと軽く食べて帰ろうかな、と思いつつ振り返ったとき、丁度前から来た人にぶつかってしまった。

「あっ!!」
「きゃ!!」

 衝撃で僕はよろけたが、相手は傘を落としてしまっていた。ついでに持っていたらしい箱も落としてしまったようで、大きく声をあげた。慌てて僕は頭を下げる。
「すみません!!」
「うわー……いえ、大丈夫です……あれっ」
「あっ」

 彼女だった。
 羽学の、さん。
 さっきまで、考えていた、彼女だった。

「赤城くん……だよね」
「ご、ごめん!さん、何か落としたよな」
「あ、うん……大丈夫、かな?」

 水気の耐えない歩道に、ビニール袋に包まれた箱が落ちてしまっていた。慌てて拾い上げる。有名チェーン店のドーナツの箱だった。
「ドーナツ?うわ、本当にごめん、中身ちょっと確認してみてくれないか?」
「いいよ、別に、多分大丈夫だから」
「いや、流石にそういう訳にはいかないよ」
「いいって、ほんとに、大丈夫」
「でもぼとって落ち」
 そう僕たちが言い合っていると、側を一台の車が通った。けたたましく水しぶきを上げ、あっと言う間に、ちょうど通路側にいた僕の右半身が水をかぶる。
 そう、その右手には、彼女のドーナツの袋を持っていた。


「あのー、……赤城くん、大丈夫?」
「……うん、ブレザーが濡れただけだから。脱げば平気。でもドーナツが……」

 ビニール袋の持ち手から水がしっかりと染み込んでいた。例え、形が崩れていなかったとしても、きっと濡れてしまっていることだろう。僕は大きく溜息をついた。そんな僕を見かねたか、彼女は小さくくすりと笑う。

「いいよ、別に今日買っていかなきゃいけない訳じゃなかったし」
「でも、せっかく、君が買ったんだろ?」
「うん、新しい味のが出たらしいから、買っただけ。自分の分だから、大丈夫」
 彼女は手を勢い良く左右に振りながら、僕の掴んでいたドーナツの袋を受け取った。そして、カバンの中を探っている。また僕は溜息をついた。なんとも、情けない。
 ブレザーを仕方がなく脱ぎ始めた僕の前に、さんはタオルを差し出してくれた。
「使って?今日、まだ使ってないから」
「……悪いからいいよ、と言いたいところだけど、ありがたく使わせてもらうよ」
 さんは、僕の持つ傘を受け取り、代わりにタオルを渡してくれる。再び情けなくて何ともいえない、苦い味が口の中に広がる気がする。

 そこで僕はふと、気がついた。
 ここはどこの前だっただろう、と。眼の前のガラス張りのお店を見上げ、それから彼女の傘の中を覗き込んだ。

「おわびに、おごらせてもらえないかな……その、君がよければ、だけどさ」

 彼女は一瞬、瞳を大きく開き、ゆっくり瞬いた。
「悪いよ」
「いや、さすがにこれは譲れないよ」
 僕がそう言うと、彼女はにっこりと笑う。立てかけてくれていた傘を僕の肩にとん、とナナメに置いた。

「……いいよ。おわび、だもんね」

 その笑顔に、とても救われた気持ちになり、心臓が少し、跳ね上がった気がする。今日初めて、最悪な雨にちょっとだけ、感謝した。



 店内に入ると、まず色とりどりのケーキが並んだショーケースが目に入る。右方に三段ほどの下り階段を経て、喫茶コーナーが広がっていた。あまり席数がある訳ではなさそうだけれども、時間帯のおかげか、やはりそんなに混んではいなかった。
 隣に立つ、さんを先に通す。
「君、ここ来たことある?」
「うん。たまに来るよ」
「じゃあ、流れは任せた」
「え?」

「いらっしゃいませー」

 ケーキの列の向こうから、店員が声を掛けてくる。
「お持ち帰りでしょうか?」
「あ、食べていきます。……赤城くんは?決めた?」
「うーん……君先にどうぞ」
「ええと……うーん、うーん、じゃあこのかぼちゃのモンブランひとつ」
 ショーケースの向こう、店員の女性が屈んでケーキの棚を開けていた。僕は彼女に声を掛ける。
「ショートケーキって、甘い?」
「甘いけど、甘すぎる感じじゃないよ。ここのは大体」
「そうか、じゃあ僕は苺のショートケーキ」
 最後は店員に向けて、言う。「かしこまりました」と笑顔を残し、彼女はまた姿を隠した。



 最近のお洒落なお店のケーキは大体に小さいと思う。けれども、ここのケーキは味は最高なのに大きさも普通で、いいのよ、と母が言っていた。
 なるほど。テーブルの上に置かれた、彼女のかぼちゃモンブランと、僕の苺ショートケーキは手ごろなサイズでフィルムを外されるのを待っていた。優しい紅茶の香りがふわりと店内を漂う。

「じゃあ、どうぞ、その、悪かったね。ドーナツ」
「やだな、もういいってば。うん、いただきます」
「……いただきます」

 フォークでくるりと透明なフィルムをはがす。繊細な苺のショートケーキは、中が三層になっていた。早速先の方からひとくち分すくって、口に入れる。ゆるやかに甘さが広がり、ほっとする心地だった。
「うん……おいしい」
「ね。おいしいよ。こっちのかぼちゃもおいしい!ありがとう」
 目の前の彼女はにこにこと笑っていた。元はといえば、僕がぶつかって、ドーナツを落としたからだというのに。前に会ったときは強気でツンっとしていたような彼女だったけれど、今日の彼女はまるでふんわり、このクリームのように優しい。何故か喉の奥がきゅっと閉まって、声が一瞬出てこなかった。
「あんまり、甘すぎないでしょ」
 彼女が続けるので、僕は頷く。
「うん。実は、今日はケーキが食べたいなって気分だったんだ」
「あ、そうなんだ。赤城くん、お店覗いてたもんね」
 やっぱり見られてたよな、と苦笑いをする。彼女もひとくち、紅茶を飲み、目で笑っていた。
「でも一人じゃ入りにくいから止めようかなって思ってたところに君とぶつかったんだ。本当にドーナツは悪かったな、と思ったけど、ケーキが食べられて、良かった」
 僕も紅茶のカップを傾けた。柔らかな香りが、口の中の甘さを流す。滅多に飲まないけれども、今日は格別おいしいな、と感じた。

「何か、今日の赤城くん、素直だね?」

 くすくすと笑いながら、彼女はこちらを上目遣いで見ている。僕も笑う。
「うん、負い目があるからね。素直になることにした」
 彼女は大きく笑うと、辺りを見回し、手を口に当ててから小さく、笑いなおした。頬が少しピンク色に染まっていて、やっぱり素直な僕はそれを可愛い、と思った。



















夢メニューへ
TOPへ