Sunny Clouds











 夏休み。受験の追い込みがあるから、と予め言っておいた効果があってか、彼女―さんからの着信は僕の携帯電話にはなかった。
 というのも、夏休みに入る前までは毎週のように電話があったからだ。だが、流石に僕が受験生だから、と気遣い始めたようで、最後の電話のときにこう言っていた。

「邪魔しないように、がんばる」

 その一言を聞くと、つい僕は口をすべらせていた。
「無理しなくても、たまには遊ぼう」

 去年の春に彼女と出かけることになり、それからは二人で色々なところへ行った。彼女はイメージ通り、楽しいことが大好きで、常にアンテナを張っているかのように面白そうなところへ僕を誘い出してくれる。
 僕もいつも誘われてばかりでは、と自分の好きなところや、逆に彼女が好きそうな催し物があれば誘うようになった。
 彼女は一見、自由奔放そうに見えて、振り回されるのだけれど、ふとしたときに気を使ってくれたりすることが分かり、何とも憎めない存在だった。本当に妹がいたらこういう感じなのだろう、と思う。



「玉緒、あんた彼女がいるんだって?」
「姉さん!?」

 台所で麦茶のポットを冷蔵庫から取り出していると、急に後ろから声を掛けられた。驚いて、ポットを取り落とすところだったが、間一髪、抱きかかえて惨事は免れた。一瞬で思い出したのはさんの顔だった。
「何で?いないよそんなの……」
「あら?こないだ映画館で女の子といるのを見かけたって友達が言ってたから」
 私にもちょうだい、と姉はコップをふたつ、棚から取り出す。僕はそれに麦茶を注ぐ。二人ともダイニングに腰を据えるつもりではなかったようで、僕は立ったままコップを傾けた。姉もまた同じように一口飲むと、居間のソファーへと移動した。僕はポットを冷蔵庫にしまう。エアコンが効いている部屋の中、なぜか掌が汗ばんでいた。
「それは後輩の子だよ。先々週、かな。映画観にいったから」
「ふうん、あんたが女の子と映画ねぇ」
 姉の背中に弁明するように話しかけると、こちらのほうも見ないで知ったふうに彼女は言う。何もやましいことがないだけに、普通にしていれば良いのだが、胸の鼓動が早くなるばかりだ。これは何となく気まずい気がして、早々に自室にひきあげることにした。後ろから姉がまた一言言う。それは嬉しそうな響きをはらんで僕の耳に届いた。
「何とも思ってない子とデートするような甲斐性があったのね」

 何も動揺することは無いはずだ。姉が言うように変な気持ちを抱いてはさんにも申し訳ないと思った。無邪気に僕を慕ってくれる、後輩をそんな風に、恋愛対象として見てはいけないのではないかと思っているから。
 なのに、姉の含みをおびたようなセリフが頭の中で回って仕方が無かった。
 友達と遊びに出かけるように、彼女とも遊びに出かけて、何もおかしいところなんてないハズなのに。



 その日の夜、少し部屋を空けたその時に電話があったようで、不在着信の表示が携帯電話に映っていた。僕が彼女のことを考えていたから、という訳でもないのに、携帯電話の着信窓に「」の文字が点滅しているのを見て僕は心臓が飛び出るかと思った。実に久しぶりの電話だ。慌てて僕は掛けなおす。
『もしもし!』
 久々に聞くその声は携帯電話を通していても溌剌と聞こえた。元気そうでつい笑みがこぼれる。
さん?ごめんね、電話もらったみたいで」
『玉緒センパイ!夏休み、一回だけでいいから、遊びにいかない?』
 一回だけでいい、とは殊勝なことだ。もちろん、遠慮しているんだろう。なのに誘ってくれたことがありがたく、深く考えるまでもなく僕はオーケーと言っていた。
「いいよ。一回だけ、だなんて遠慮するんだね。さんも」
『だって。玉緒センパイが受験生だからあんまり遊んでられないって言ったんじゃない!私だってそりゃあセンパイの邪魔になりたくないもん』
 何かがことん、と音を立てた気がした。思わず辺りを見回すが、何も落ちた様子はなく、部屋の扉もきちんと閉まったままだった。僕は首を傾げる。
「……気を使ってくれてありがとう。ええっと、それで、どこへ?」
『うん、あのね、来週、臨海公園で花火大会なの知ってる?行こう!』
 そうだった。
 確か、夏休み前にもちらりと彼女が言っていたハズだ。去年は行けなかったから今年は行きたい、と話した内容を思い出す。
「そうだったね。今年は行きたいって確か言ってたもんな。行こう」
『いいの?やったー!じゃあ臨海公園に6時ぐらいね!』
「了解。気をつけてくるんだよ」
『はーい!』
「それで……」
 そしてぷつり、と通話は途切れた。もちろん、彼女が通話終了ボタンを押したからだろう。
 ただ、久々だったので僕は話したいことがまだあった。せっかちな彼女。僕は苦笑いが頬に浮かんでくるのを感じながら、携帯電話を机に置いた。



 当日、天気の心配をすることもなく、いくらかは夕方になって涼しいかと思われたが、全くもって猛暑の勢いは衰えていなかった。隣を歩くさんはしきりに団扇で扇いでいた。
「ねえねえ、りんご飴のちいさいヤツ売ってるかな。私、花火大会初めてだけど縁日もたくさんあるって聞いたから楽しみにしてたの!センパイは何食べたい?」
「うーん、僕はイカ焼きかな」
「あっそれもいいねえー!なんかソースの匂いしてこない?」
 浴衣の袖をはためかせ、彼女は鼻をならす仕草をする。僕は思わず苦笑した。
「ちょっと、せっかく浴衣なんだからそういうのやめなよ」
 そう僕が言うと、面食らったようにさんは僕の顔を見た。黙って見られるので僕は首を傾げる。
「……何?どうかした?」
「センパイ、私が浴衣だって気付いてたんだ」
「は?」
 何をいきなり言うのかこの子は。
 姿を一目見れば分かるだろう。いつもと違う雰囲気に少し驚いて、でも声を掛けて笑うのを見るといつもの彼女だ、と感じることができた。不覚にも意識してしまったことが恥ずかしく思っていたので、浴衣についてはコメントしなかったのだけれど、もしかして。
「せっかく浴衣着てきたのに、何も言ってくれないから、センパイには見えてないのかと思った」
「何だそれは」
 つい口をついてしまった。
 けれど、責めるようなさんの視線に気付いて、僕はそれを外しながら答えた。
「いつもと雰囲気が違ってびっくりしたんだよ。似合ってる」
 そう言ってから彼女を覗き込むと、それはそれは満足そうに、そしてはにかんだように笑うので、僕の心臓はうるさくなったのだった。

 さんはよく喋って、よく食べて、よく笑っていた。
 僕もたくさん喋った。大分間が空いていたので、話すことはたくさんあった。学校の話、進路の話、テレビの話、共通の知り合いの話。
「こないだ、設楽センパイとダーツに行ったの。ちょっと上手だったよ!意外じゃない?」
「へえ……設楽と?設楽ダーツなんてできたのか」
「うん、電話かかってきて『ダーツにいくぞ』って」
 彼女は設楽のモノマネを交えて教えてくれる。けれども僕は瞬時に心中にもやもやと暗雲が垂れ込めたのに気付いた。あからさまに嫉妬、という感情だとすぐに分かった。
 僕が受験で会えない、と言うから他の奴と出かけるのか?とか設楽は油断もスキもならん奴だな、だとかそういう思いが雨になって僕の中に降っている。
「……それで今度は玉緒センパイも一緒に行こう?私、設楽センパイと玉緒センパイがお喋りしてるとこ見るの好き」
「ああ、……そうだな。そのうち」
 でも、彼女はそういう僕の気持ちを全く知らない。知らない癖にどんどん入ってきて、雲を追い払ってしまう。
 この気持ちをどういう言葉で表現したら良いのか僕はまだ分からない。



 花火目当ての人は驚くほどにたくさんいた。そんなことはないと思っても、はばたき市にこれ程人がいたのかと思う。僕はこんなに人が集まる場所にきたのは初めてのことだったし、さんとはぐれないようにせねば、と思った。彼女は僕の袖をひいていたので、僕はそのひっぱられる感触を腕に覚えながら歩く。

「うわあー!!」
 ふいに一発目があがった。人波に押されて流されて、気付くと打ち上げ場所の近くだった。真上に上がる花火を見上げると、一際明るく、そして綺麗だった。外灯の無いところまで来ていたので、空の花火しか照らすものはなく、皆そろって顔を上にあげていた。

「綺麗……」
「うん……そうだね」 
 しばらく、いや、そう綺麗だと言って以来、彼女は一言も発さなくなってしまった。完全に空に見入っているらしい。隣を見下ろすと、瞳に花火を映していて、それもまた綺麗だと思った。
 ふと腕に重みを感じた。
 ずっと袖を掴んでいた彼女の手が僕の組んでいた腕に添えられたのだ。その手は熱い。風が涼しくなってきたので、余計にその熱さが僕の心をざわめかせる。
 ドキドキした。

 次々に空を埋める、光の粒。
 流れるようなしだれ花火に歓声が沸く。なのにさんはじっと、黙って真上を見上げていた。
「どうか、した?」
 腕に触れていた手がぴくりと動いた。彼女は目線だけを僕に合わせる。
「来年は玉緒センパイ、大学生でしょ?」
 僕も顔を彼女に向けた。彼女の瞳は今、暗い。
「そうだよ。うまく合格できたら、の話だけどね」
 笑いを滲ませて言うけれど、さんはちっとも笑わなかった。首を振っている。
「玉緒センパイが落ちる訳ないもん。そして大学生になったらきっと」
 彼女はそこで言葉を切った。また花火が上がった。大きい。
「……私と、花火なんて見にきてもらえない」
 熱い手がしっかりと僕の腕に触れている。浴衣のさらりとした生地越しに熱が。
「何で。来るよ。また来年も来よう?」
 まるで小さい子をあやすかのような気持ちになって彼女を見ると不安気に瞳が揺れていた。またも、何かがことん、と音を立てたと思う。ようやく気付いた、きっと僕の心だ。
 柔らかい髪の毛を撫でると、彼女は少しだけ首を傾げて、笑った。
 いつもの笑顔だった。
「約束、だよ!」

 僕は彼女が好きなんだ。















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