同居人の苦悩 そおっと背後から近づく。まだ全然気付いていない。そおっとそおっと。そしてあと半歩、というところで、対象物そのものがくるりと反転するものだから、私はバランスを崩して、大きく声をあげた。 「何で!振り向くの!!」 「いや、何か殺気がしたから……何してんのちゃん」 襲おうと思いました、なんて言えやしない。 星喰みを消し去ることに成功してから幾日かが経った。 身寄りのない私はダングレストに凛々の明星(ブレイヴヴェスペリア)の本拠地を作るということでそこに居を構えている。そこでは宿無し草だったレイヴンと生活するというちょっと奇妙な同居生活になっていた。 何が奇妙かというと、 私はレイヴンに想いを伝え、そして彼も私と共に生きていくことを誓ってくれた訳で。晴れて恋人同士?になるのかと私は思っていたのだけれど、そういう感じでもなく、普通に同居、といった感じが一番近い。 つまり、私は現状に大きく不満を抱いているという、訳だ。 「何でそーっと近づくのよ。イタズラでもするつもりだったんでしょ」 「……」 どうして、乙女心が分かんないのかなあ。 というか私も彼が何を考えているのか全く、訳が分からなかった。 一緒に暮らして3ヶ月は経ったけれども、キスどころかお互いに触れてもいない。これはどういうことなのだろう、と差し当たって男心の分かるであろう、ユーリに相談してみた。 彼はいつものように薄く笑いながら、言った。 「おっさんだからじゃねぇ?」 それじゃあ理由にならない、と私が言うと、こうだった。 「色気が足りないってことだな」 それは、認めざるを得なかった。 「普通ね、想いが通じ合った男女がひとつ屋根の下にいたら、そういう展開になるのって自然でしょう?」 「まあ、そうだな」 ダングレストの行き着けの飲み屋で私は管をまいていた。改めて、じっくりとユーリに話を聞いてもらう。彼はお気に入りの串焼きの竹串を指で弄びつつ、けれど視線はちゃんと私へ向けてくれていた。 「でもね、全然そういう雰囲気にもならない。本当に普通の同居人!!優しいよ?優しいけど、普通に優しいだけで、何て言うか……もっと私は、恋人っぽく、なりたいの!!」 「、呑みすぎ」 喧騒にまぎれ、どこからか音楽も聞こえる。けれどももそれらは今は全て耳を滑ってゆく。だって、どうしようもない。向かいに座るユーリが机の上からひょい、と腕を伸ばすと、ぽん、ぽん、と頭を撫でてくれる。申し訳なくなって目を伏せた。 「……こういう、スキンシップは無いことはないんだけどね。私のこと相当子供だと思ってるのかな、もう25なんだけど」 「まあおっさんから見ればそうなのかもしれないけど……の方こそ、そう思ってるってことをレイヴンに言ってるのか?」 痛いところを突かれた。私は机にそのままつんのめるようにうつ伏せる。改めて言葉に出すのが怖い、というのは感覚的に分かってもらえるのだろうか?少し黙ってから、答えた。 「………………言ってない。だって、ねぇ……それでひかれたらもう一緒に住めないと思う」 「住めないって?おっさんと?」 突然頭上から降ってきた聞き覚えのある声に私は文字通り、しばし固まった。 「よぅおっさん。お迎えか?」 「うちの子がお世話になってるって聞いたからね」 空いていたはずの隣の席に、どかりと腰かける気配。 私は顔をそーっとあげて、まずユーリの顔を見る。困ったように眉を寄せて、ちょっと笑っていた。いや、彼は別に何も困ってはいないはずだ。これはポーズで、実のところは内心楽しんでいるに違いない。また、丁度いい時に……。 次に顔を巡らせ、自分の左側に向けると、やっぱり予想したとおりの、紫色の羽織が目に入る。次いで3日ぶりぐらいに見ることになる、同居人の顔が見えた。彼はちょっと膨れたような顔をして、こちらをじっと肘を突いて見ていた。 「ひさしぶり。ちゃん」 ちょっとだけ懐かしいように目をきゅっと細める彼だけれど、口元に笑みが乗っていないのが見てとれる。私は顔をそのまま再び伏せた。 「……どうして、ここにいるの?」 「ちょっと早く帰れたから。そしたらユーリと飲みに行ったってカロルに聞いたからね。こうして便乗しておっさんも、ご飯でも食べようかと思って?」 ……その続きは聞かれなかった。どうしよう。何だか、変なタイミングだったようだ。 『住めない』という言葉しか彼に聞こえなかったのか。それは好都合であり、一番悪いところかもしれない。とまだ酔いの残る頭で考える。こめかみをきゅっと押さえた。 「おっさん邪魔すんなよ。俺とが飯食ってるのに、割り込むなんざぁいい度胸じゃねーか」 慌てて前方に頭を向けると、喉元を逸らし、ユーリはジョッキをあおってそう言った。何でまた、そんなことを。冗談にしても今は間が悪く、空気を読んでくれと言いたい。 「何言ってんの。青年には可愛いお嬢ちゃんがいるでしょ。ちゃんまで、なんてちょっと贅が過ぎんじゃないの〜」 いつもよりも少し、低い声。何だか冗談を言い合っているような言葉なのに、声色がそれとは少し違うように聞こえて、私は二人をおろおろと見比べた。 挑発するようにレイヴンを流し見ながらも、私に向かってウインクしてみせるユーリ。 片やうっすら笑いながらも、いつものヘラヘラした感じをどこかに置いてきたのか。もしかしたら仕事帰りで疲れているのか。雰囲気が違う様相のレイヴン。 「いいから、おっさんはほっといて、俺と住むことにするんだろ?」 「えええーなんで、そんな話」 思わず私が手を振ると、その手を横からパっと掴まれた。 「いやいや、ちょっとそれだけは譲れねぇわおっさんも」 そのまま隣の手の主、レイヴンはすっと立ち上がった。私もつられて引っ張られるように立つ。 「この話はまたの機会に」 そうレイヴンはいつものトーンで明るく言うと、ユーリに背中を向けて、片手を振る。私は引きずられるように彼に連れられ、酒場を後にした。戸口を通って、外は風が頬をひやりと掠める。 「さっ寒い……あっショール忘れてきちゃった……」 そう私が言っても、前を向いたまま、私の手を引いたまま、レイヴンは振り返ることも何か言ってもくれなかった。もしかしたら怒らせてしまったようだ。何で『住めない』か彼は分かっていないとは言え、何だかすごく悪いことをした気分になり、私ももうそれ以上は何も言わず、彼の後をついて歩く。 私と、レイヴンが住む家は通りから少し入った先にある小さい家だった。まさに、大人二人がちょうどよく住めるような各々の部屋がひとつずつ、そしてリビングダイニングのようにご飯を囲んだりする部屋。それと最低限の炊事ができる台所と浴室だけの、家だ。 帰ると、すぐにリビングであるソファに座らせられた。彼もそのまま机を囲んだ斜向かいに腰を下ろす。何を言われるかと、心臓が変な意味で音を立てていた。 「ちょっと、聞かせて」 「はい」 けれども、彼の表情には怒りの色は読み取れなかった。どこか寂しそうに、眉を少し、寄せていただけだ。 「ちゃん。俺と同居、止めたかったの?」 ずばり、直球勝負で彼はきた。私はそのことにもびっくりするけれど、慌てて首を真横に振った。 「ち、違うよ」 「……一緒に住めないって、俺のことじゃないの?ああいうのはさ、先に本人に聞かせて欲しいと思うんだけど……」 やっぱりそこしか聞いてなかったのか。私はふうっと一つ息を吐いた。全部言うのは、やっぱりどうしたって恥ずかしい。内容が内容だけに、自分から言うのが憚れる。 すると、隣の彼からも溜息がひとつ漏れた。がしがし、と髪を掻き毟り、彼はもう一度息を落として、ぽつりと言う。 「青年とご飯食べるのは別にいいんだけどさ。ほんとに。でも、お酒飲むって、やっぱりどうかと思うよおっさんは。おっさんはね」 黙っていると、話が違う方向へ向いた。私は首を少し傾げる。 「……でも前からよく、お酒も一緒に飲んでたよ?」 「大人数で飲むのは構わんよ。でもね、二人っきりってやっぱり危機感薄いと思う。あのね。ちゃんも子供じゃないんだから分かるだろうけどさ、男ってのは狼だよ」 ずーっと一緒にいるのに襲わない狼もいるじゃないか。 その時、色々私も溜まっていたものが、限界に来た、というのがよくよく分かった。 子供じゃないって分かってるんじゃないか。 男は狼だって、私、知らない訳じゃない。 「じゃあどうして、私の側にいるあなたは、牙を向かないの?」 私がそう呟くと、顔を合わせていた、レイヴンは「ん?」というように眉を寄せた。その仕草に私は余計に、いらだった。 「私だって子供じゃないって、分かってる。子供じゃないよ。大人だよ?女だよ」 「し、知ってる。だからこうやって心配してるんじゃない」 「心配じゃないよ!!」 思わず大きい声が出てしまった。そう、眼の前の彼は驚いたように目を見開いている。でも私は自分でもう感情をコントロールできそうになかった。全部、吐き出してしまえ。もうそれでどうなろうと、もういいや、と捨て鉢のような、気持ちだったのだ。 「私のこと、何だと思ってるの!?」 頬が熱いと思ったら、涙だった。 私、大分我慢していたんだ、とそう開き直ると、今度は涙が止まらなかった。 「レイヴンがそんなんだから、何にもしないから、私、色々考えて、でも私から言うのもなんだと思うし、もしそれでレイヴンにひかれたら、だって一緒になんか住めないじゃない!私ばっかり、大好きで、もう、どうしていいか……」 突然、目の前が暗くなると、苦しくなった。 薄暗い部屋の中、思い切り、抱きしめられていると気付いたのは、少し後だった。 「……レイヴン……?」 「ごめん。あの、そこまで、考えてたなんて……」 耳のすぐ側で低く響く声に、弾けたように身体が揺れた。思わず、彼の服を掴んだ。 「考えるよ!!だって、もう……私の方しか好きじゃないんだって思って」 「泣かないで。ちゃん、泣かないで……」 そう今度は優しい声音で言われて、耳が自分でぴくりと動いたのが分かる。 「ごめん、ほんとに……」 私の涙が止まるのが分かると、そおっと、彼は身体を離した。ソファの下に膝をついて、私を包むように私の肩を両手で掴む。さっきの痛い程の抱擁が嘘のように、優しく、壊れ物のような扱いに、私はちょっとだけ笑ってしまう。 「……?何笑ってんの」 「ううん、何か、変だから。レイヴンって変」 私が笑ったので彼も幾分とほっとしたように、頬を緩めた。柔らかく翡翠の色が揺れている。 「うん、俺様変なの。だからちゃんに嫌われるのがイヤだったし、ずっとこんな風でもいいのかなって思ってもいた。不安にさせたね。悪かった」 頬をするりと、撫でられた。大きな手が私の顔を包む。じんわりと温かい。 「でも、もう、分かった。バカみたい、だよな俺」 そう言いながら、彼は顔を寄せてきて、私も、瞳を閉じた。 どんどんと深くなる口付けに、私は苦しくて、酸素を求めて口を開けた。さっき泣いたせいで、ちょっと鼻が詰まっている。でもそんなのお構いなしに、レイヴンは開いた口に舌を差し入れてきた。 歯をなぞるように順番になぶられ、行き場のなくなった私の舌は吸い取られるように彼の大きな唇で挟まれる。 「……ふ……」 やっと開放されると、私は大きく息をした。心臓も壊れそうなほどに動いていたし、掴んでいた彼の服はしわしわに、なっていた。 「ごめん、服しわしわ」 「ん」 彼は頷くと、勢いよく、脱ぎ始めた。私が動揺する間もないくらいあっという間に、上半身だけさらけ出すと、目の当たりにする彼の心臓魔道器がぼんやりと淡く光っていた。私がそれを目にするのは、初めてだった。 「触っても、いい?」 「うん」 おそるおそる、手を伸ばして、彼の胸に触れる。心臓魔道器はゆるく紅く、灯滅していた。 「あったかい、ね」 「そう?」 「うん」 彼の体温を作り出す、彼の血を作り出す、彼を生かす、装置。私の心臓と変わらない働きをしているのかと思うと、思わず顔を寄せた。 「どうしたの?」 「ありがとうって。レイヴンを生かしてくれてる、から」 そっと口付けると、無機質で固い感触なのに、人肌で、何とも不思議な感じだ。 そのままレイヴンの顔を見上げると、どうかしたのか、痛そうな、切なそうな、顔をしていた。 「ど、どうしたの……?ごめん、何か痛かった?」 「いや……俺、生きててよかったなって…………今思った」 彼はそう言うと、私を胸元から離して、また口付けた。 安堵と、動揺。相反するその気持ちが私の中で混じりあって、もうどうしようもないほどに私はこの人を好きだと、そう思った。 「青年にわざと煽ってくれって、言った訳じゃない、よね」 「え?」 朝、コーヒーを淹れていたら、唐突にそうレイヴンは言い出した。 寝起きのぼさぼさの頭を掻き毟り、うー、とかあー、とか言い出し、しまいには机に突っ伏す。私はその頭の側に「コーヒーここ置くから、気をつけてよ」とマグカップを置いた。 「ありがとう……」 ゆっくりと顔をあげた彼は何とも言えない、恥ずかしそうな顔をしていて、つい私は頬を緩めてしまう。35歳にしてはちょっと可愛らしいんじゃないかな、いや、言わないでおくけれども。 「ユーリには、ちょっとした相談をしてただけで、ユーリだって私と住みたい訳じゃないしね。単純に、レイヴンをからかってみただけ、なんじゃないかな」 「だよなぁ。挑発されたってのは分かってたんだけどな〜」 私も自分のコーヒーを持って、彼の斜向かいのソファに腰掛けた。昨日の晩とは逆の位置。 「まぁあれだ。一瞬でも青年のものになるちゃんを想像しちゃってカッとなっちゃったんだよな」 しみじみとコーヒーをすすりながら言われるその言葉に、私は手が震えた。 彼は自分の発した言葉の破壊力には全然気付いていないらしい。マグカップを傾けながら、二、三度頷き、そして私の方を向いた。 「どうかした?」 「いや、あの……それって、ええっと」 独占欲ですよね。 基本的に、想いを寄せる相手にしか見せないものですよね。 そう頭の中で問いかけて、でもそれは声にはならないので黙ってコーヒーを飲んだ。 「大人気なかったな……」 小さく呟く、レイヴンを見る。 口の中はほんのり苦いのに、どうしようもなく甘い気持ちが流れてくれない。 |