恋ふわり 狭い宿の廊下。すれ違ってふと掠めた香り。明らかに普段は彼からすることのない、その花のような香りに私はつい眉を顰めた。 「なんか、いい香りだね?レイヴン」 「え?そ〜お?何でだろう?」 私の隣で彼はその着ている羽織にふんふんと鼻を寄せる仕草をする。 首を傾げている彼に何だか面白くない気がして、私は見なかったふりをして通り過ぎた。 確実に女性ものの香水だと思う。 この世界のブランドとかは全然よく分からないけれど、香水と言うものがあるのは分かる。エステルがたまに付けているコロンを付けさせてもらったこともあるからだ。 レイヴンはいくつだと言っていたか、ちょっと覚えていないのだけれど、私よりも10は年上だと思う。 もちろん大人だし、きっと彼を待っている女性だって各地にいてもおかしくない。そう、おかしくなんかない。レイヴンは女性とみたら口説くタイプの男の人だ。 なのに私は何故こんなに傷ついているんだろう。 私は冗談―彼だったら誰にでも言うようなその言葉を信じてしまっていたのだろうか。 「おっさんは、ちゃんが大好きよ」 「ちゃんが幸せになるお手伝いがしたいわ」 「元の世界に戻れるといいんだけど……でもきっとおっさん、悲しいんだろうけどね」 知らない間に心に入り込んでいた言葉、優しい笑顔、肩にさりげなく触れる掌。 そのどれもに知らず、救われていたんだと実感する。 宿の部屋に戻ると、エステルとリタを心配させないようにすぐにベッドへ潜り込んだ。 予想していた以上のショックに襲われた私も、眠ることがちゃんとできた。 身体は正直なのだろう。疲れに身も心も任せてしまえば、夢すら見ずに眠ることができた。 目が覚めると、まだ早朝だった。もう一度眠ろうと目を閉じてみてもちっとも眠気は訪れない。しん、と静かな部屋に、私の他の女性3人の気持ち良さそうな寝息が小さく聞こえる。私は物音を立てないように用心しながら、気をつけてベッドから這い出すと部屋を後にした。 宿から出ると、白々とした霧が薄くかかっていることに気付いた。そういえばここは港町だったのだと思い至る。折角なので朝の海を見ようと、港の方へ足を向けた。朝の空気は冷たくて、しゃんとしている。胸いっぱいに吸い込みながら、港の奥、波止場へと向かう。 世界が違っても、海も、空も、そこに存在するのだなあと私は常々不思議にも思っていた。 星喰みが現れてからというものこの空には大蛇か何かのように、気持ちの悪いうねりが出ていたけれど、それまでは本当に澄んだキレイな青だった。夜になると、元いた世界では見られなかった満天の星空。あの星喰みですらキラキラと輝いて見えて、私は単純にキレイだと思っているぐらい。 今は世界が朝を迎えようとしている。空の色は薄いピンク。霧がすうっと晴れている水平線の彼方は、溶け込んだ海と空の境に眩い太陽が現れていて、幻想的で美しい光景だった。知らず、胸元に手を固く握り締めて、私は見入っていた。 「綺麗……」 「本当に」 呟いた私の言葉に重なる聞き覚えのある男の人の声。慌てて後ろを振り向くと、そこにはいつもの紫色の羽織を被った彼がいた。 「なっ……」 驚いて身をひねり、そのまま私は二、三歩後ずさる。すると、あるべき床を踏む感触がなくなり、私は足を滑らす。しまった。 「ちょっと!?ちゃん……!」 レイヴンも慌てて腕を伸ばしてくれるけれど、私の腕を引き寄せたものの、私の半身は既に海の上へと飛び出ていた。それは彼にも予想外だったのだろう、私に引きずられる形で二人で海の中へと落ちることになってしまった。 突然の衝撃、冷たさ、息が出来ない! 「!……」 「!!」 何がなんだか分からない。そのまま共に落ちたレイヴンに必死にしがみつく。普段は泳げなくなんか、ないのに、驚くほど身体が動かない。朝の冷たい潮水は思っていた以上に身体の自由を奪うのだと初めて知った。 結局、レイヴンにしがみついたまま、波止場の先へと戻ってきた。レイヴンが私を抱えて地上へと押し上げてくれて、彼はその後からゆっくりと上がってくる。潮水をたくさん飲んでしまって気持ちが悪いし、すごく寒かった。揺れる視界に、自分が震えているんだと気付くのに少し遅れた。 「レイヴンが……驚かすから……っ」 むせながら私がそう言うと、レイヴンはごめんねごめんね、と繰り返す。本当はただ後ろにいただけで、こんなに驚く方にもびっくりするんじゃないかなと思ったりもしたけれど、彼は何も言わなかった。 私も、まさか昨日の晩から思考を埋めて埋め尽くしていた当人がそこにいるなんて思わなかったから、ここまで驚いた訳で、つい責めるような言い方になってしまったことにとても後悔した。けれど訂正する言葉も見当たらず、黙って唇を噛んだ。 「とりあえず、宿に帰りましょ。二人とも、濡れ鼠よ」 「うん……」 震える腕をひっぱってレイヴンは私を強引に立たせた。そのまま宙に浮いた、と気付いたのは既にレイヴンが歩き出してからだった。 「えっ?えっ……?」 「やっぱり濡れると重たいやねぇ」 「ちょっと!!」 「冗談」 私はレイヴンに抱きかかえられていた。彼は普通に歩いている。私のことを重いと言いながら、すたすた、とまるで何も持っていないときと同じように、むしろそれよりも早く急いで、歩く。落ちないように、慌てて私は彼の首元にまた、しがみついた。今度は濡れて服が密着した肌が触れるのが分かって、どうしようもなく恥ずかしい。やはり腕をほどいて、二人の間につっかえ棒のように伸ばす。彼の身体は熱かった。 「降ろして!歩く!歩きます!!」 「いいから!暴れるとおっことしちゃうじゃない!」 「いいの!降ります!」 「強情ね」 至近距離で顔を覗き込まれて、私は思わずそっぽをむく。彼の瞳が私の顔を映すのが嫌だ。既に宿の前に着いていたのが分かり、私はまたぎゅうっと腕に力を入れて突っ張る。 「そーんな照れなくてもいいじゃない」 「照れるとか、そうじゃなくて!あの!」 そこまで言うと、彼はまさにニヤニヤとした笑顔を浮かべながら、そおっと私を地面に降ろす。なんという憎たらしい顔! 大きく紫色がはためく。レイヴンはずぶぬれの羽織をばさりと振り脱ぎ、軽くその後絞ってから宿の扉を開けた。 「店主!悪いけど湯浴みの用意してくれない!?」 温かいお湯につかり、エステルが用意してくれた着替えを手に取る。いつかダングレストの食堂でアルバイトをしたときにもらった衣装だった。メイドさんのようなその服は恥ずかしかったけれども、いつもの衣装はただいま干している最中だろう。仕方が無く、その衣装を身に着ける。 ふわりと優しい花のような甘い香りが鼻をくすぐる。気をきかせてコロンをふってくれたのだろう。けれども昨日のことを思い出してしまい、私はまた少し落ち込む気になる。 宿の湯浴み場を出ると、エステルがいた。 「ごめんなさい、迷惑かけて」 「いいえ!そんなこと……どうして、海なんかに落ちてしまったのです?」 単純に、朝の海を見に行って、後ろから声を掛けられて驚いたからだ、と言う私にエステルは美しい眉を顰めた。 「ほんとだよ。まさか誰かいると思わなくって」 「それにしたって、危ないじゃないですか!若い乙女がひとり、薄暗い中を港に、だなんて」 「そう……だよね。ごめんなさい」 「ええ、レイヴンだってが心配で付いて行ったのでは?」 「あ」 言われるまでなんとも思っていなかったことに気付く。 何故、彼はあそこにいたのだろう。あんな時間に。 「ほんと、どうしてあんな時間にいたんだろう」 「ですから、を心配して、付いていったんじゃありません?」 小首を傾げて、目の前のお姫様は当然のように言う。 「結構朝早かったよ?」 「そうですよね。よくが宿を出かけるのに気付かれましたよね」 また、自然なことではないかと言うようにエステルが頷きながら言う。 「何でそんなに当たり前じゃない!って顔、してるの?」 私は苦笑いしながら聞く。彼女も困ったように笑う。 「レイヴンはいつもを気にしてらっしゃいますもの」 耳が熱くなった。 その後は待っててくれたエステルと食堂へ向かった。皆もう席について朝食を食べていたのだ。遅れた私も手早く食事を済ませ、宿を後にする手続きを取る。未だ濡れている衣服を棒につるして、バウルの運ぶ船にひっかけることにした。そうすると、すぐに乾いてしまうだろう。 「乾いたわね〜」 「うん」 甲板で洗濯物が並んではためいているのをぼんやりと見つめていると、隣に腰を下ろす気配がした。声で分かってはいたけれど、レイヴンだった。 レイヴンもダングレストでもらった元気のよくなるようなビタミンカラーの服を着ていた。それを見て私はつい噴き出してしまう。 「なんかそれ……レイヴンに似合ってるのか、似合ってないのかわかんないね」 「ええ〜?なんでよ?すごーく似合ってるじゃない!若々しくて!!」 「そうかな?何か若すぎないかなぁ……?」 「ちょっと!ちゃんおっさんいじめ、よくない!」 ははっと笑い声を残しながら、レイヴンはぽつりと呟いた。 「ちゃん……いい香りするね?」 「あ。これは、エステルが私にくれるってコロンを」 「へえ。確かにお嬢ちゃんの香りとは違うみたいね。ちょっと大人っぽい」 私はちょっと顔が引きつるのを感じた。 さすがだ。エステルの香りも覚えている。何となく面白くない。むしろすこし苛立つ。 ふと何か感じたのか、レイヴンは私の顔を覗き込んだ。 「あ、れ?もしかして、ちゃん」 何か表情に出てたのかもしれない。嫌だ。レイヴンとは逆側に顔を逸らす。 「何?」 「もしかして、何か怒ってる?」 「いいえ。別に何も怒ってないけど」 「嘘。ちゃん、正直だから。すぐ顔に出る」 思わず顔を両手で触れた。そんな私を見て、隣のレイヴンは可笑しそうに笑う。 「う、そ」 いつも通りだ。のらり、くらりとしている彼。 それは本当にいつも通りなのに、私は勝手にそれに苛立った。 「からかったの!?もう!」 勢い立ち上がり、その場を離れようと歩き出す。すると、レイヴンはちょっとちょっと、と慌てたような声を出しながら引き止めるようなことを言う。 「まだ聞いてないんだけど。何で怒ってるの?もしかして、朝のこと?」 頭の後ろからかけられたその言葉に私は血が逆流するような感覚になる。一気に頬が熱くなった。落水。触れた腕、厚い胸板。熱い肌。フラッシュバックする脳内をかき消すように首を振る。 「違う!!違うの!朝は……、その、私こそごめんなさい、と」 いまだ伝えてもいなかった、助けてもらったことに対して礼を言おうと振り向く。 そこには、眩しい太陽の色を身につけた、レイヴンは薄く笑っていた。 「ありがとう……でした」 顔を見続けることができなくて、私は頭を下げて視線を逸らした。頭頂にぽん、と軽く温かい重みを感じる。 「はい、どういたしまして」 そのまま頭の上で彼の掌は二、三度行き来をして、離れていった。 イイコイイコされたのだと気付き、鼻の奥がつん、とした。 彼にとっては、子供も同然なのだ。十程の年の差はそんなに違うのか。 私だってもう25歳だ。それなりに恋愛もした。始める恋あれば終わるものもしかり。それでもこの人の人生には遠く及ばないらしい。 (やばい) 涙が零れそうになっていることに気付き、必死にまばたきをせぬよう、後ろを向く。 こんなことで涙が出そうだなんて、おかしい。昨日と今日の自分はおかしいのだ。 「ちゃん」 「はい」 「こっち向いて」 「嫌」 「どうして」 「嫌だからです」 風にあおられて、背後のレイヴンが笑っているのが分かった。小さくくっくっと笑う声が耳に届く。 「昨日はね」 急に近くなったような声に心臓が一際大きく跳ねた。一歩、距離を詰めたのだろうか。私のすぐ後ろで彼は続けた。 「ちょっと飲みたくなっちゃって、飲みに出かけた。そうね、ちゃんやお嬢ちゃん、リタっちが毛嫌いしそうな飲み屋に」 いわゆる、女の人がたくさんいる飲み屋だろう。私の世界で言うところの、キャバクラとかそういうところに近い。あちらでも、そしてこちらの世界でも私は足を踏み入れたことがないところだ。 「だから、コロンの香りがしたのかもね。おっさん、あんまりそういうの得意じゃないからよく分かんなかったけど、羽織に付いてた?」 十分に彼は気付いていた。 私は背中を見せたまま、黙って頭を縦に振った。涙は抑えられている。もう、まばたきをしても大丈夫そうだった。 そのまましばらく、沈黙が流れた。 真後ろに彼が立ったままなのは気付いていた。風が当たらないからだ。しばらく黙り込んでしまい、私は動こうにも動けない、と思っていた。突然振り返るのも恥ずかしいし、かと言って黙って立ち去るのも気が引けた。 レイヴンはたまに身じろぐ衣擦れの音がしたけれども、やっぱり黙っていた。私の知りたいであろうと思うことを語ったから、もう話すことはない、と思っているのかもしれない。 耳の側では風が唸る音が控えめに鳴っていた。 「あのさ、俺ね、すっごく今、ぎゅってしたい気持ちなんだけど、いいかな」 突然振ってきた言葉を理解し、そしてえっ、と声を上げて振り返った途端、本当に抱きしめられた。 力任せではなく、抵抗すれば簡単に振りほどけそうな強さ。それが気遣いなのか遠慮なのか、混乱した私にはよく分からない。思わず息を止めてしまう。心臓が痛いほど動いている。 「あの、あの、何で?何でこんな」 「俺も、よく分からない」 耳の後ろでふふ、とレイヴンが笑った。呼吸がくすぐったくて私は少し身を捩る。 「はー、いい匂い」 「やめて、やめて」 「もう少しだけ」 私は我に返って僅かに抵抗し始めた。すると、レイヴンに今度は強く腕に力を込めている。 ぼそりと掠れそうな声でレイヴンは呟いた。 「こういうの、多分、初めて」 「え?」 「こういう、歯がゆいの」 主語も何も無い文章だったけれど、私はなんとなく分かった。 私のこの今持つ気持ちや、彼がまた持っている気持ち。そちらは私には到底理解はできないものだと思うけれど、それがふたつ。彼の30数年の人生の中で初めてのことらしい。私はまた泣きたくもないのに、鼻の奥がつんとする感覚を覚えた。 |