ちょっとした買い物をしようと市場に出かけると、すぐに目立つ様相の子を見つけた。彼女も私に気付いたようで、軽く会釈をよこしてくる。とても綺麗な整った顔立ちのお嬢さん。 柔らかそうなピンク色の髪の毛。ふんわりとした高級であることが一目で見てとれる衣服を着た昨日の彼女だった。彼女は親しげな笑顔を寄せて、話しかけてくれる。 「お買い物、です?」 「はい。ちょっと日用品を。あなたもそうですか?」 「ええ、面白くて、見て回っていました」 私の隣に彼女は立つと、「これは何に使うものです?」と市場の物売りに尋ねている。その仕草がいかにも育ちの良さそうな貴族然とした立ち居振る舞いで、私はちょっと見惚れた。 「これは、栓抜きだよ。嬢ちゃん、こんなもんも知らねぇのかい」 「えっ、栓抜き……面白い形なので、魔道具の何かかと!」 「はっはっはそんなもん、この市場で売るわきゃあねぇだろ」 店主は機嫌よく笑っていた。私もつい頬を緩める。何を隠そう、私も同じようなことで笑われることがよくあるからだ。世間知らずという訳ではないけれど、どうしたって元の世界と諸所が違う。私は近づいた。 「彼女、私の親戚だから。ごめんなさい。世間にうといの」 「アンタの親戚か。なるほど、そりゃあ世間知らずに違いねぇや」 顔見知りの店主が笑顔で、おまけに、と私の買い物に加えて、さっきの栓抜きをくれた。 市場を後にして、私は彼女にその栓抜きを渡す。 「あの、これどうぞ」 「えっ。ええっと、ええ、では、ありがたく」 彼女は丁寧にその栓抜きを受け取ると、次は嬉しそうに笑った。 「ありがとうございます。大事にしますね」 「えへへ。大事にしなくてもいいけど、ワインを飲むときにでも使ってください」 「ふふ、はい」 「おおーい。勝手にいなくなるなよー。エステルー」 くすくすと笑いあっていると、向こうの方から大きく人を呼ぶ声がする。弾かれたように、眼の前の彼女は振り向き、手を振りはじめた。 「はーい!ごめんなさーい!」 「あ、じゃあ、また何かあればユニオンで」 「はい。きっとまた伺うと思います」 エステルと呼ばれた彼女は、深くお辞儀をしてから、私を背中に歩き出した。綺麗な姿勢だなぁ、と私はまたもしばし、見惚れた。 そのときだった。 遠く、騒ぎ声が聞こえるな、とは思っていたが、突然地響きが鳴り始めたのだ。 「きゃ」 「うわぁ」 眼の前のエステルも思わず倒れ、私も立っていられずにその場に膝をつく。慌てて駆け寄る影を感じた。 「エステル!大丈夫か」 「ええ、ユーリ、一体これは」 私も顔を上げると、目の前に昨日の綺麗なお兄さんが立っていた。 「ほらアンタも。大丈夫か?」 「はい、すみません」 差し出された手に遠慮なく掴まらせてもらい、立ち上がる。未だ地面が揺れているような気がする。街の入り口のほうで牽制するような声があがっていた。 そのとき、鐘の音が鳴り響いたのだ。それは巨大な音で、市場の皆も俄かに慌て始めた。 「警鐘!?」 ユーリと呼ばれた彼は辺りを素早く見渡す。 「魔物だ!!魔物が中に!!」 誰かの慌てたような声に、思わず三人で顔を見合わせた。 「くそっ、エステル、そこにいろよ?アンタ、エステルを頼んだ!!」 「え?!」 叫ぶ人の声にユーリはいち早く駆け出してしまう。取り残された形のエステルは愕然としたように空を仰いだ。 「そんな……!結界魔道器<シルトブラスティア>は!?」 つられて上を見上げた私も、同じく愕然とした。 「……ない……!」 いつも見慣れた空に大きく張り出すような円が、今日は無かった。 いつからだろう。全く気付かなかった。隣のエステルは私の肩を掴む。 「ここはいつも、結界魔道器がなくなる時間があるんです!?」 「な、そんなの、聞いたことないです!」 知識として、結界が街には張ってあり、そのおかげで魔物が人間のそばに入ってこられないということは知ってはいた。けれども、その結界がなくなることは今まで私は聞いたことも、体験したこともなかったのだ。こんなパニックになった街の人たちだって初めて見た。 「私も!!」 エステルはそう言うと、街の入り口の方へと走り去る。 「え?!ちょ、エステルさん!ユーリさんが動くなって言ってましたよ!?」 聞こえていないのか、振り返りもせず、真っ直ぐ走って行ってしまう彼女の背中を夢中で追いかけた。頼まれたということもあるし、私も何が何だか分からない中、混乱していたのは確かだった。 気付くと街の入り口だった。大きくまた地面が揺れる。地響きと同じように、唸り声なのだと気付いたのは、既に視界に魔物と呼ばれるべき存在を捉えてからだった。 「あれが……」 姿は大きな猪のようであったけれども、色も大きさも私が知っているそれとは全く違っていた。他にも大きなカマキリのようなもの、狼のようなもの、なんとも形容しがたい、本当に見たことも無いような形をしたものも、たくさん、いた。耳を劈くような魔物たちの声。心の底から沸きあがる、恐怖に自然と手が震えた。 エステルの後姿を見つけ、思わず駆け寄ったが、突然白い光に身が包まれた。 ああ、これは見たことがある。 ふっと身体が楽になる。これはここに来た日に自分が初めて遭遇した普通じゃない、こと。魔法だった。 「エステル……さん、あの」 「あっ、こちらに来てはだめです!危ないです!」 私の顔を捉えると、そんなことを彼女は言った。どちらが、と言い掛けたそのとき、白い彼女の背後に大きい影が被さった。 「!!」 「危ない!!」 咄嗟に彼女の腕を思い切り引っ張った。大きな熊のような様相の魔物が大きな手を振り下ろして、さっきまで彼女がいた地面は驚くことに、掠めたように削られる。 「なっ……なんて力……」 思わず引き寄せた彼女にしがみ付く。歯の根が合わないほどにカタカタと震えているのは自分だと気付いたのはその数秒後だった。話に聞き、遠くから見てはいても、実際に目の当たりにすると、在り得ない場所に私が今いるんだと、ことごとく実感させられる。 震え続ける私の手にエステルはそっと手を重ねてきた。顔を見上げると、小さく微笑んでいる。 「大丈夫、下がっていてください。こう見えても私、戦いには少し、慣れたんですよ」 凛々しく柳眉をひきしめ、私から離れると、彼女は腰元に携えていた剣をすらりと引き抜いた。所謂フェンシングのときなどに使うレイピアのような、細身の剣で、私は至極感心した。 それと同時に、この世界はこんなにたおやかそうな彼女ですら、戦う術を持っていなければならないのか、と改めて感じる。 私は戦う人の邪魔にならぬよう、身を引くことにする。けれどもどこに逃げて良いものかは全く分からない。人が走る波の方へと足を向けた。と、そこでがくりと膝をついてしまう。 「や、やだな……」 腰が抜けているみたい。膝から下が震えていて、立てなくなっている。 なんとか立とうと腕を地につけるけれども、焦れば焦るほど、力が入らないのが分かる。 「何で……」 突然、横からおぞましい気を感じた。 慌ててそちらを向くと、人程の大きさもある昆虫のような存在がしっかりと私を視野に捉えていたのだ。 声が出ない。 叫ぼうとする、足を奮い立たそうとする、それが駄目なら腕だけで這い逃げようとする、頭の中ではあれやこれやしようとするも、肝心の身体はただ震えるばかりで、ちっとも言うことを聞かなかった。 目の前の昆虫がゆっくりと私に近づいてきていた。大きな鎌を振り上げて、そして……。 「!!!!」 はっと大きく自分を呼ばれるのに気付いたときには、既に目の前には彼がいた。 大きな昆虫は横たわり、黒々しい血液を垂れ流している。私はその光景を目にし、やっと声が出た。掠れた声が耳に入り、それが自分のものだと気付く。 「レイヴン……」 「早くユニオンの中へ!!あそこなら人もたくさんいる!!どうしてこんなところにいるんだ!」 「……ごめんなさい、立てなくて」 レイヴンは弓を片手に私を引き起こし、そのまままるで荷物か何かのように私を担ぎ上げた。 「震えてる。バカだな、早く逃げなさいよ」 「はい……」 口調こそいつものようだったけれども、声色が普段とは違って耳に届いた。無用心な私に怒っているようだ。荷物のフリをして、そのままずっと私は黙っていた。 「てめえらかかれぇ!!」 私とレイヴンの横からドンの野太い声が轟くと、一斉に人の声があがった。急に士気が上がったように、あちらこちらから威勢の良い人の声がするのだ。あのドンが応援に駆けつけた。その事実はドンの力だけではない威力を目の当たりにする。そのまま魔物の群れから大分離れた、と思うと、私は案外と優しく地に下ろされた。ほっとして、また足に力が入らなくなり、腰をそのまま下ろした。 「ここらならもう大丈夫でしょ。あのドンも出てきたんだ」 そう言ってレイヴンはちょっとだけ笑って、ぽん、と私の頭を軽く抑えた。その余韻も残さぬよう、彼は振り返ると、魔物の群れの方角へと走ってゆく。 恐ろしかった。 もう、だめだと思った。 あんな風に襲われていたら、ひとたまりもなかったろう、と思う。 この世界で生きてゆくのは、何と大変なのだろう、とエステルの剣を構えた儚そうな後姿を思い出していた。 |