repaint ; 塗り替える









さん。赤ん坊は興味を持った対象を見て、触れ、そして口に入れて確認するという行動を取るという話を前にしたことを覚えていますか?全ての五感を使い、記憶してゆくのです」
科学実験室の片付け当番も済み、いつものフラスココーヒーを頂きながら、突然先生はこんなことを言い始めた。
あれは2人で空中庭園に行った帰りだったと思う。確かにそんな話を聞いて、そして先生ってば「僕を食べないでくださいね」なんて言ったものだからちゃんと覚えている。
「はい、覚えてますよ」
科学準備室には今は薬品ではなく、香ばしいコーヒーの香りが充満している。コーヒーの香りが大好きで、夕方の陽の暮れる前の柔らかな光も大好きで、そして大好きなひとと事務机というムードはないものではあるけれど、それを挟んでこうしているのはとても幸せで。私は心を跳ねさせながら、先生の話の続きを待っていた。ビーカーを傾かせて光に透かせて琥珀色の影を頬に作る先生を見つめながら。
「また赤ん坊の話です。こんな例があります。子守唄を聞くと泣いていても落ち着いて眠りに入る準備を始める赤ん坊がいました。それは母親の胎内にいるときから聞いていたお決まりの唄だったそうです。だから母親の中にいた頃を思い出すように精神が安定していたのですって。
 しかしある日、一晩限り、母親ではなく別の女性が子守唄を歌って寝かせることにしたんですね。いつもと違う人、だと。母親ではない、と理解できる赤ん坊はどうしたと思います?」
「え…と。泣きますよね。お母さんが恋しくて」
先生は真剣な顔になっていた。授業中なんかよりも、もっと。人差し指を立てて、ピンポンです。と言うと、少し机に身を乗り出して口を開く。
「泣きました。たくさんたくさん泣いて怒って、しかし母親は来ず、別の人しかいなかった。彼女は子守唄を歌えば子供は寝る、と聞いていたのでちゃんと歌ってあげたそうだ。けれども赤ん坊は眠るどころか、泣き叫ぶばかりだったそう」
「お母さんがいないって思えば、そうなるんでしょうね」
身近に小さな子がいないのでピンとはこないが、そういうものだろう、と私は言った。先生は頷く。
「次の日には母親は戻ってきたんだ。朝起きた子供はとても喜んだ。けれども、その晩からは子守唄を歌ったところで、赤ん坊は泣くばかりだったそうです。何故だか分かりますか?」
「今日は問題ばっかりですね」
「ふふ。たまには教師っぽいでしょう」
私は天井を見上げながら考えた。
「やっぱり、お母さんがいなかった夜のことを思い出すからですか?」
「ピンポンです。たかだか生まれて1年も経たない子供がだよ。きちん、と記憶しているんだ。そしてそれは次々に上から塗り替えられる。それが当人にとってショッキングであればあるほど強い色で塗られ、次の記憶を塗ろうとも、下が透けて浮かび上がってくるんだ」
ゆらりと空気が動いたので先生の方を向くと、驚くほど近くに顔があって、先生の椅子の足を思わず蹴った。キャスター付の椅子に座っていた私は後へすべっていき、同時に先生もちょっとだけ後ろへ下がった。
「…なんで蹴るんですか。さん」
「先生が近くにいるからっですっ」
頬が熱い。
「顔が赤いです」
「先生のせいですっ」
ふっと先生は視線を逸らし、俯いた。今日の先生はちょっといつもと違う気がする。いつもいつもふわふわと所在なさげにはしているんだけど、安心感があって、あったかい。午後の日差しのような雰囲気なのに。今日は違う。その安心感がなくなって、今にも飛んでいってしまいそう。まるで日差しに見えた埃の星みたいで、思わず私は椅子をひき、先生の白衣のすそをつかんだ。
すると先生は驚くほどの力で私の腕をひっぱり、私は声をあげる間もなく先生の胸に転がり込んだ。額に先生のネクタイが当たってすべやかな感触を味わう。ぎいっと古い椅子が鳴った。ああ、先生の椅子はキャスターがついていなかったのか。
「そんな可愛い顔をしてはいけません」
「え…」
先生のネクタイから顔をあげると、唇に強く温かいものを押し付けられた。それが先生の唇だと気づくのに少しの時間が必要だった。
私の頭は混乱して、どうしていいのか分からなくなって、この厚くない胸板をどんっと押せばいいの、とか、広い肩をたくさん力いっぱいたたけばいいの、とか、それか、腕を首に回したらいいの、とか。色々色々選択肢が出るだけで、実際はただただ私の腕は先生と私を境界するために折りたたまれていて、身動きひとつできなかった。
柔らかくて温かい先生の唇はちゃんとそこにあって、どんどん私は動機が激しくなっていくのが分かった。私がぐっと閉じている歯の扉を先生はノックするように舌でなぞり、膝のちからが抜けた。先生の膝の上に座る格好になってからやっと私の腕に力が入った。
どん。
先生の膝から降りると、私はその場に尻餅をついた。つきたくなかったけれど、立てなかったのだ。事務机を背もたれに、荒い息を整える。
「なんで…先生」
息も絶え絶えに尋ねると、先生も椅子から降りて、私の前にしゃがみこんだ。
「答えは簡単です。僕も記憶の塗り替えをしたかった」
「きおくの…」
未だ収まらない激しい動悸を落ち着かせるように右手を胸に当てた。先生の顔が見れない。一体今、どんな表情をしているんだろう。
「僕は知っています。君はあのとき、彼しか見ていなかった。彼も君しか目に入らなかったのでしょう。しかし僕はそれを見ていた」
海岸通りで、君はあのとき入学したてで…、そう彼は急いでいましたね…。
先生の言葉を咀嚼してみてもよくわからない。目をぎゅっと閉じてみると、途端に目の前が光ったように思い出した。
「あ、あの、時の」
思わず顔を上げると、先生の微笑んだ顔がすぐそこにあった。その表情といったら、私が期末テストで学年首位になったときのように満足げで。私は不覚にも見とれた。
「ね。塗り替えられましたか」
もう一度、今度は私が避けられるように、なのか、ゆっくりと近づいてくる先生の顔。私は先生の思惑通り、瞼を閉じた。














わわ、初めてのせんせぇ。ノーマルに『先生』呼びが好きなんですけど。



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