君への想いの行方 (10)









 空はようやくうっすらと陽を傾きかける様相を映し出していた。もう時計を見れば彼女の勤める花屋の閉店間際だ。陽が長くなったなぁ、と汗ばむ首元がそれを感じていた。
 仕事内容はよくは分からないけれども、お店が終わってすぐ出てくることはあんまりない。片付けや明日の用意などがあるのだろう、とは思っているが、どうしても落ち着かなく、店舗の前というのは居心地が悪かった。
 一瞬、会いに行くから待っててくれ、というメールをしておいてどこか別の所で待っていようかと考えを巡らすがすぐにそれを破棄する。もし彼女がメールに気付かなければ入れ違いになるだろうし、最悪、メールを見た上で無視されるという、可能性も、無いわけじゃない。
 僕は頭を左右に振って、やはり通りでぼんやりと待つという選択肢を選ぶことにした。

 人を待つとき、僕は手持ち無沙汰になるのが少し嫌だ。
 いつもは本を持ってきて読みながら待つこともあるけれど、カバンに入っているそれらを手にする気にもなんとなくなれない。結局活字の上で目を滑らすことになりそうだというのが分かるからだ。

 大体、彼女に会って、何を言えばいいのかこの期に及んで全く考えられなかった。
 会って、その時に心に浮かんだ気持ちをぶつける?
 謝る?何に対して?

 車道に面しているガードレールにもたれて頭を下げた。その後頭部に突然冷たさを感じる。

 小さく声を上げてしまうが、頭上を見上げると、大粒の雨がすぐにまた落ちてきて、それはさあっという音と共に辺りを一気に冷やし始めた。
「わ、雨、しまった」
 今日は降らないだろう、と空を見て思っていたために傘は持っていない。慌てて花屋の軒下に入り込んだ。ほっとするべきか、残念に思うべきか、既に店にはシャッターが下りていた。
「通り雨かな……」
 ボリュームを抑えてひとりごちてみるけれども、更に雨粒によって、彼女のことを思い出す。

 初めて見かけたとき、単純に可愛いなとは、思ったんだ。
 ましてやこうして付き合うことになるとか、こんな喧嘩するような仲になるとは思ってもいなかったけれども。
 何だか急に懐かしくて笑ってしまう。もう、それは3年も前の話だ。



「あの……」
「はっ、はい!」

 雨の音で近づいてくる人の気配に全く気付かなかった。

 思わず声をあげた僕の隣には、傘を差したまさに怪訝そうな顔をした女性がいた。気の良さそうなふんわりとした雰囲気の女性だ。どことなく彼女のお母さんに似ていると感じ、瞬間、緊張した。

「あなたがさんの彼氏?」

 そう声を掛けられてようやく女性が誰か思い当たる。
「あ、こちらのお店の!」
 彼女は頷くように微笑んだ。しかしすぐにそれは心配そうな表情に変わる。
「でも、彼女さっき帰ったわよ?いつからここにいたの?」
「えっ?」

 そういえばあんまりぼんやりとしていたもので、彼女が裏口から出たかどうかを気にするのを忘れていた。
 お店の裏口から店舗の表側は直接見えない。もちろん彼女が帰るときには表通りに出るからそれを自分が追いかければいいと思っていたのだけれど、それを見落としていたとは。
 慌てて通りを見渡すと、大分距離を開けて見覚えのある赤い傘を持つ人を見つけた。
 すぐに僕は頭を下げる。
「すみません!うっかりしていました」
「うん、すぐに追いかけたらつかまるわよ」
「ありがとうございます」

 花屋の奥さんは早く早く、と僕を急かすように首を縦に動かす。僕はもう一度大きく頭を下げて、軒下から走り去った。



 いつの間にか、辺りは薄暗くなっている。日没には早いようだけれど雨が降り始め、空は黒い雲が覆っている。もわっとした埃が雨と馴染む匂い、歩道を走った。

 彼女との距離はそんなには離れていなかった。視認できるほどだ。どんどん背中を追いかけると、彼女が立ち止まっている。よく見ると、何やら男二人組が彼女に話しかけているのだった。思わず頬が歪む。僕は思い切り脚を動かした。



「…………いいじゃん」
「困りますから」
「ご飯だけ、行こうよ。友達呼んでもいいよー?」
「行きません」

 ようやく会話が聞こえてきた。聞き捨てならない会話だ。僕は走ってきた勢いそのまま、彼女の肩を掴んだ。
「おまたせ……」
「……赤城くん!!」
 突然傘の下をくぐって触れたその肩は飛び上がるように揺れたけれども、彼女は振り返って、安堵した表情を見せた。僕もほっとするのと同時に、怒りが腹の底から沸きあがってくるのを感じた。

「この子は僕の彼女なので。遠慮してもらえますか?」

 突然現れた僕に一瞬呆けたような顔をしていた男二人組はそれでも眉を吊り上げて僕を睨み始めた。どうもまだ学生のような風貌だ。この辺を歩いているということは一流大学生の可能性もあるが学内では見かけないようなガラの悪い雰囲気の男たちだ。
「うるせえな、だったら縄でもつけとけよ。一人で歩かせてんじゃねーよ」
 その勢いに少し驚く。よくその二人を見てみれば、どうも既に飲酒しているようだった。ほんのりと赤い頬と目元がそれを物語っている。僕も不快感を顔に曝け出した。
「何言ってるんだ。人の彼女に声かけておいて。早くどこか行けよ」
 つい怒りにまかせて口からそのまま思ったことが出てしまう。
 案の定、目の前の彼らは口々に「生意気だ」とか「何だよこいつ」と僕を煽るように悪態を吐きはじめた。まずい、と意識の片隅では思う。
 僕は喧嘩なんて一度もしたことがない。口喧嘩なら得意だけれども、流石に肉体的なそれには自信なんてひとつもなかった。
 僕の隣では不安そうに瞳を揺らしたさんがこちらを見上げてきていた。流石にこれはヤバい状況かもしれない、と彼女の手が僕の服の裾を掴む強さで感じる。

「何すかした顔してんだよ!」

 彼女を身体で庇いながらその男たちと向き合う。じりじりと詰められる距離に僕は焦り始める。一方でこの降る雨の中、誰も傘を差さずに立っている、変だな、と一瞬違うことを考えかけていた。が、突然に鳩尾に衝撃を喰らい、息がつまった。
「!!」
「あっ赤城くん!!」
 濡れたアスファルトに膝をつく。咳き込む僕の背をさんが慌てたように擦ってくれる。息が全然できなくて、掠れたような声が喉の奥から搾り出た。
「何なんだよ。お前は地べたに寝とけよ。つまんねぇ」
 だが、その一撃で満足がいったのか、彼ら二人はうずくまる僕とそれに縋る彼女を置いて立ち去ってくれた。正直、助かったとすら思う。ここで強引に彼女を連れ去られていたら僕はしっかり守れることができただろうかとそれだけは不安だ。
 遠ざかる彼らのスニーカーを見送りながら、息を整える。
「大丈夫!?赤城くん!!」
「うん……ごめん、大丈夫」
 僕の背中に手を置いたまま彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。雨で僕の髪の毛から雫が頬を伝う。気付けば彼女が傘を差しかけてくれていた。
 立ち上がり、もう一度深く息を吸い、吐いた。まだ殴られたところはぼんやりと重い痛みを掴んでいるようだが、歩けるし、本当に大丈夫そうだ。僕は彼女の顔を見て苦笑いをした。
「かっこわるいな……」
「何で。びっくりした。赤城くんが来てくれて良かった」
 今にも消え入りそうな声でそんなことを言われると、もう僕はどうしようもなかった。傘の下で彼女を力いっぱい、抱きしめた。

「あ、あの赤城くん」
「……ごめん。こないだのこと」

 何から切り出せば良いのか分からない、と思っていたのが嘘のように、するりと口をつく。腕の中の彼女が身構えるように一瞬揺れた。構わずに僕は続ける。
「全ては僕のヤキモチだから。そんなことで君に嫌な気持ちをさせたのは悪かったなって、思ってる。ごめん」
「それは……私もおんなじ。ごめんなさい、ヤキモチ妬いて嫌なこと言ったのは私が先」
「おんなじ?」
 少し身体を離して、彼女と顔を合わす。俯き、伏せられていた睫毛が震えているように見えて、慌てて顔を覗き込んだ。その僕の様子に驚いたのか、瞳を見開く彼女は泣いてはいなかった。大きな瞳には心配そうな顔をした僕が映りこんでいる。
「よかった。泣いてるのかと思ったよ」
「え?私が?」
 そのまま顔を見合わせるとお互いに吹き出してしまった。

 私が?と言う心底意外そうなその返しにも、驚いた彼女の顔にも安心して、僕は笑う。
 そんな慌てていた僕が可笑しかったのだろう、彼女も笑う。

 ああ、良かった。
 本当にぐだぐだと考え込むのは良くないんだ。
 言いたいことは伝えないと。

 彼女を愛しい、と強く思った。誰にも渡す訳にはいかない、と身体が先に動いた。
 それが何にも勝る自分の気持ちなのだろう。

 彼女の持つ傘を受け取り、握りなおした。
 ゆっくりした歩みで僕は自分のアパートへの道を進む。彼女も何も言わなくてもきっと分かっているみたいだ。そのまま一緒に。しばらく傘に落ちる雨垂れの音しか二人の間には流れていなかった。



「赤城くんはすごいね」
「え?」

 ふと彼女が呟くように、僕に言う。
 何が、だと言うのだろう。隣の彼女の頬を見つめて僕は「何が?」と聞き返す。
「やっぱり、私の好きになった赤城くん。高校生のときと一緒」
「え?え?」
 突然のセリフに戸惑ってしまう。嬉しいような、気恥ずかしいような胸の奥からこみ上げる気持ちを感じる。
「ちゃんと気持ちをぶつけてくれる。私は意地っ張りだから、赤城くんがそうしてくれると嬉しい」

 こっちこそ、そんな告白、嬉しくて舞い上がってしまいそうだ。
 そうは告げずに、ただ僕を見上げてくる彼女にゆっくり顔を近づける。彼女がそうっと瞳を閉じるのを見て僕もそれに倣った。

















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