雨音の香り











(1)










 6時間目の授業のときだった。アスファルトが濡れる香りに気付く。シャープペンを動かすのを少し休め、締め切ってある窓の外を見た。

(……やっぱり雨だ)

 雨が降り出すと、必然的にあの日のことが頭をよぎる。
 あれから何度も街で偶然に会ったことも思い返す。初めて待ち合わせの約束もして、でもそれは後味の悪いものだった。

 どれだけ会っていないんだろう。
 何度も、何度も街で会えたのだからまた偶然があってもおかしくないはずだ。
(何で連絡先、聞かなかったのかなぁ…)
(でも、私は赤城くんに…)
(だって、別に付き合ってなんかないし、どっちかといえば友達っていう感じでもないし)
 何と言えばいいのだろう、今の関係は。
 顔見知りというにはもうちょっと近いと思う。
 友達というほどお互いのことを知っている訳じゃない。
 彼のほうこそ、私のことをどう思っているのだろう、どんな位置に付けているんだろう。
 そこまで考えて私が小さく溜息を落とすと、丁度チャイムが鳴った。

「……はい、以上で今日の授業を終わります。…………さん?」

「は、はい!?」
 突然の名指しに私は思わず立ち上がる。
 勢いよく立ち上がった私に驚いたのか、若王子先生は首を傾げた。
「えっと、今日の日直は君だったと思うのですが?号令をかけてもらえますか?」
「あ……」
「もしかして、目を開けて寝てました?」
 どっと笑いに包まれる我がクラス。いたたまれない気持ちで私は号令をかけた。
(これも、赤城くんのせいなんだから!)
 私はここにいない、さっきまで考えていた人物に頭の中で怒りをぶつけた。



 彼は例のコンサートの後、わざわざ羽学までやってきてくれて、謝ってくれた。でも、それを謝るということが私の胸の中のモヤモヤを増進させた気がする。
 だから、私はあんなことを言ってしまった。
「たまたま誘ってくれたんだよね、そんなの分かってるから」
 でもこれは裏返せば、私の好意が伝わってしまうような、諸刃の剣だと思う。でもきっと彼はそんなの気付かない。気付かなかった、と私は感じている。



 ぽん、と勢いよく傘を開く。気分の明るくなるようなピンクの水玉模様のものを買った。少し大きめのサイズのものだ。もし、今度どこかで雨宿りしている彼を見かけたら、入れてあげられるように。
 でもきっと、そんな都合のいいことは起こり得ない。少しだけ期待をしてしまう雨のしずくに私は自嘲気味に笑ってみる。偶然会えるだけでもすごいのに、更にまた雨の日に傘を持っていない彼に、だなんて。

 もうすぐ冬になるのだ、と私は大きく息を吸って感じた。特別、雨の日は冷え込んでくるようになった。私は少し身震いする。
 羽学の制服にカーディガンがあまり似合わないので、こういう日の冷え込みには困る。大体うちの学校の女の子はワンピースの下に薄手のものを重ねて着ているようで、何か上に着るときはコートになる。今の季節、セーラー服や、ブレザーだったら迷いなくカーディガンを着るのにな、と思い、目の端に移った他の高校の女生徒に思わず見とれた。

(はば学だ…)
 セーラー服にカーディガンを上に着ている。まさに今考えていた理想の姿だった。単純に可愛いな、と思う。この高校に来る前には羽学はすごく可愛い制服だと思っていた。今でも気に入ってはいるし、他校生の子には可愛いと言われるけれど、やっぱり無いものねだりというか、いかにも女子高生というような格好にも憧れる。

 そして私は思わず声を上げかけた。

 今私が見とれていた女の子の周りには何人かのはば学の男の子もいて、その内の一人がまさにさっきまで私の思考を満たしていた彼だったからだ。
 見間違いではないか、こっそり、傘の陰から様子を伺う。
 はば学の集団は私の少し前を歩いていて、皆傘を差していた。彼だと気付けたのは、隣の人に話しかけるときに横を向いていて、その横顔に気付いたからだった。
 彼は楽しそうに笑っていた。そして隣の女の子に何やら言われながら、肩を叩かれている。それでも彼は楽しそうに笑っていた。

 ユキ。
 そう言って呼んだ、あの子と同じ人だろうか。あの日の女の子の顔まではっきりとは覚えていないけれど、やけにあの時の声が耳についていて今も鼓膜の奥でその声が聞こえた気がした。
 そこまで考えたところで、私がこんな気持ちになる必要なんてどこにも無いことに思い至る。私の言葉こそがそれを表している。
「付き合ってる訳じゃない」
 それでも、なんとも形容しがたい、悲しい、胸の締め付けられるようなこの気持ちは真実だ。この気持ちは何と言えばいいのかそれも分からない。胸の奥の奥の、私の本当に感じているものが大きな手で鷲づかみにされたような。
 悔しい?違う。そこにいるのが、自分であれば…?

 これを嫉妬と呼ぶのだと私は身を持って体感した。

 私は、彼が好きなんだ。
 独占したいぐらいに、好きなんだ。

 もう今気付いても、何を伝えられることがあるんだろう。
 遅すぎる。
 私はバスに乗るために、道を変えた。









 その日は委員会でたまたま遅くなってしまった。
 卒業前の引継ぎということで長々と話すことがあり、予定時間を過ぎていた。窓から雲行きを眺めながら、危ないな、とは思っていたけれど、やっぱり、雨が降り出してきていた。
「寒ー」
 一人で呟くと白く息が舞い上がった。下駄箱から自分の靴を引っ張り出す。靴を履きながら外を見ると、まだ傘を差して歩いている人がいない。小降りのうちに早く帰ってしまわなくては。私は急いで駆け出した。

 校門から出てしばらく走ったけれど、雨はどんどん酷くなるばかりで、仕方がなしに近くの商店の軒先に駆け込んだ。
 結構濡れてしまった。慌ててカバンからハンカチタオルを取り出して、腕や肩の水気を払った。カバンもしっとりと濡れてしまっている。そこで、私は彼と出会ったときの場所にいるとようやく気がついた。
「何だか……待ってるみたい」
 私は言って、靴下まで濡れた靴先を見ながら、ちょっとだけ笑った。
 彼はどんな気持ちで羽学の前で待っていたんだろう。きっと視線を感じても堂々とはしていたんだろうけれど、私だって、本当に会いたかったらはば学の前で待っていればよかったんだ。そうして、連絡先を聞いてみたってよかったのに。今更後悔してもどれもこれも遅いと思った。本人に誤解を生まないようにと注意される前ならきっと出来ただろうに。彼はいつも話しかけて、くれたのに。
 そんな風に考えていると、突然、雨宿りの為にだろうか走っている人影を見つけた。すごい勢いで私のいるこの軒先に駆け込んできたその人は、ふう、と大きく一つ息を吐いて、言った。

「やみそうにないね」

「あかぎく…」

 私は口を開けたまま、彼を見つめた。
 今、私が思い出していた彼がそのまま、ここにいた。今度は、私を確実に目で捉えて。彼は首を少し傾げて、口元だけで笑った。

「ねえ、今日は、このまま聞いて、逃げないで」
 彼にそう言われて、初めて私は及び腰になっていたことに気付く。別に逃げようとした訳じゃなく、ただ驚いてしまっていただけなのだけど、私は恥ずかしくて彼の顔を見られなかった。

 それから彼は、訥々と彼自身の気持ちを教えてくれた。
 あの時、こう思っていた。とか、こう言おうと思っていたよ、とか。
 私は涙をこぼさずにいるのに必死で、俯いて彼の方を向けないままだった。だから、どんな表情で彼がその言葉を発していたのかは分からない。だけど、最後に私が気持ちを伝え返そうと思ったとき、彼はちいさく言った。

「さよなら」

「待って」

 ずっと黙り込んでいた私の声は小さくて、掠れていた。
 きっと彼の耳には届かなかったんだろう。彼は透明なビニール傘を1本置いて、既に走り去っていった後だった。
 どんどん、雨の景色に溶けてゆく彼の背中を見ながら私は堪えられなくなった涙を零した。
「最後まで、聞いてくれないのは、どっちよ……」
 鼻の奥がツンとする。彼の言葉が頭の中を通り過ぎてくれなくて、何度もこだました。
『好きだったよ』
 もう彼にとっては過去形なんだと思い当たって、余計に胸が苦しくなった。私の痛みは今なのに。
 雨で濡れたハンカチを顔に押し当てると、酷く冷たかった。









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