レポートを書き上げて部屋の壁時計を見上げると、23時になっていた。
うーん、と伸びをして腕を真上にあげた。集中できたとは言えないが、今日のうちに終わらせられたことで安心する。
明日の授業の準備をすべく、僕は椅子から立ち上がった。それと同時に、マナーモードのままにしていた携帯電話がどこかで震えている音がした。
今まさに取ろうと思っていた通学用のカバンの中にそれを入れたままにしておいたことを思い出す。
1週間ぐらいか、まともに見る気もしなかったからほぼそれはカバンのポケットに鎮座したままのはず。
逸る気持ちを抑えて、期待と不安に踊る手を机の横に下げているカバンに伸ばす。
ずっと震えていた、そのバイブ音がふっと止んだ。
慌ててポケットから取り出し、携帯電話を開くと、光るその液晶に「不在着信:1件」の文字。
指を着信履歴ボタンに滑らせると、そこには見慣れた
」の文字。
すぐに通話ボタンを押す。
彼女から1週間もメールも電話も何も無いことなんて無かった。
出会って3年たつけれど、自分の中の彼女の割合がとてもとても大きいことに改めて気づかされた1週間だったのだ。

『もっもしもしっ』
わずかな呼出音の後にすぐ聞こえてきた彼女の声。
耳の奥で鼓動が大きくなった。まさか電話越しに聞こえるんじゃないかと思う程。
「もしもし…あの、出ようとしたら切れちゃって。ごめん」

もどかしい。電話ってこんなにもどかしいものだったかと思う。
本当なら、電話をくれただけでこんなにも嬉しくなるものだったんだと思う。
最近の僕はそれに慢心していたんだと思わざるを得ない。
『いえ、あの、今、忙しかったですか?もしかして寝てました?』
23時、けして早い時間とは言えない。だけれどなおのこと、何の用で電話をしてくれたのか考えてしまう。
「いや、大丈夫。ちょうどレポートも終わったところだし、まだ寝るつもりもなかったから」
『良かった。遅くにごめんなさい。どうしても、お話したかったんです』

心臓が痛いほど動いた、気がした。
そんなに考える程、話したいことって、何だ。
もう会えないとか、3人じゃないと会えないとか、勝手に帰るなんて最低とか、
いろいろ言われるのではと予想されるセリフが頭の中に一気に広がる。
嫌われていたら、どうしよう。
また心臓が動く。
「何の、話かな?」
優しい声が出せただろうか。声が上擦ってしまった気がする。
少し間を置いて、彼女は話した。

『はい、あの、………ごめんなさい。私、玉緒先輩にとても失礼なことを言って』
「え…っと、この間の日曜のこと?」
『はい、ごめんなさい、考えなしでした。いい気持ちなんてしないの分かるのに、つい言葉に出してしまって』

気持ちがみるみる萎んでゆくのを感じる。
つい言葉に出すほど考えていたっていうことかな…。やっぱりそれは。
「いや、いいよ、気にしてない。むしろ僕の方こそ先に帰ってしまってすまなかった」
『そんなの私、平気です。あの時だって本当の気持ちを先輩にちゃんと言えば良かったんだから』

本当の気持ち、と聞いて僕は更に止めを刺されると感じた。

「本当の…?」
『ほ、本当は…』
「うん?」

電話を支える手が汗で滑ってしまう。こんなに湿気を帯びると電話がダメになるんじゃないかとどうでもいいようなことを頭の片隅で覚える。
慌てて右手で持っていた携帯電話を左手に換える。

『本当は、玉緒先輩と二人でとっても嬉しかったというか、恥ずかしくて、あの、つい…』

一瞬耳を疑った。通り抜けた彼女の可愛い声を脳内に引き止めるべく、頭の中で反芻する。
「二人でとっても嬉しかった……」
『何でリピートするんですか!でも、その、まあ、えっと、そういうことです』

そういうこと。
ずるいなぁ彼女は。
つい僕は息をもらす。
「ふ、そう?そうだったの」
『恥ずかしいからもう言いませんけど、そうです』
急に彼女の声がそっけなく聞こえる。
可愛い。
照れ隠し、ということで自惚れてしまってもよいのだろうか。
『聖司先輩に、馬鹿だって言われました。心配して損したって』
急に出てきたアイツの名前が気になるが、彼も彼なりに僕と、彼女のことを心配してくれたのか、と口元が緩む。
「設楽が?心配してくれてたのか」
『そうみたいです。玉緒先輩、何か言ったんですか?』
「僕?僕は…」

あの日の電話を思い返す。




「今日、彼女に会ったんだけどさ、設楽、留学のこと言ってなかったんだな、ごめん」
『そうだったな、わざわざ言うのも何だかな、と思ってはいたからな。…何で謝るんだ?』
「……彼女、ショック受けてたよ」
『そうか。まあ仕方ない。改めて俺からも連絡しとく』
「すまなかった」
『は?だから何謝ってるんだお前?何か後ろめたいのか?』
「いや、ちょっと、勝手に彼女に言ってしまったから」
『何なんだよお前は。別にいいって言ってるだろ』



「いや、設楽には勝手に留学のことを君に伝えてしまってすまない、と謝っただけだよ」
『そうだったんですか…』
しばらく彼女は沈黙した。
何だろう。いたたまれない。

「とにかく、僕も本当はもっと早く…君に謝りたかったんだ」
『そんな、謝ってもらうことなんて無いです』
「いや、本当にすまなかった。なんていうか、大人げなかったというか」
また左手にも汗をかいてきている。今度は右手にもちかえて、左手の汗を着ているパーカーの裾でぬぐった。

『先輩、あのっ』

また一段と心臓が痛く揺れた。言わせてはいけない。
言わせてばかりでは、男がすたると言うじゃないか。
「あの、さん、来週の日曜時間ないかな?会って話したい」
本当は、今すぐにでも会いに行きたいけれど。
そう伝えたいところをぐっと飲み込んだ。
いつしかパーカーの裾を握っていた左手もじわっと熱くなっていた。









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