震える月 (3)











 明朝、早くに私は部屋を抜け出た。
 街は未だひっそりとしていた。白々と朝日に包まれているミョルゾの街はより幻想的に見えた。
 寒くもなく、暑くもなく、丁度良い気温であることに私は驚く。下の世界では大体に寒かったり、暑かったり、この世界にも四季というものが明確にあるかどうかは分からないけれど、少なくともこのミョルゾには関係ないようだった。

 一人で色々考えたくなって、部屋を抜けてきたのだ。
 昨日、レイヴンと話していた場所まで来る。眺めもよく、最高の立地だった。自分のブーツが音を鳴らす。それだけが耳に聞こえた。
 しばらく空の朝焼けをぼんやり見ていた。ミョルゾは向かう方向もころころ変わるのだから、明日はこちら側に朝日はないのかな、などと取りとめもなく考えていて、肝心なことは考えられそうにも無い。

「帰れって、言うもの、どう考えても帰ればいいんだよね……」

 一人で呟いて、階段に腰を下ろす。膝に顔を埋めるように、三角座りをする。じわりと滲みそうになる涙を抑える苦肉の策だった。折角昨日の晩、冷やしておさまった瞼がまた腫れてしまう。

ちゃん」

 小さく、遠慮がちにかけられた声に驚き、声をあげそうになって、それを押し込める。
 いるはずのない、彼がいる。昨日はここで帰れと冷たく言い放った、彼が。
 以前も、こうして突然背後から声をかけられ、驚いた私は冷たい海の中へ落ちた。
 今はまだ座っていたので動くことはなかったけれども、もし段差のへりにでもいたら下に落ちていたに違いない。私は急に動き出した心臓を押さえるように、胸に手を当てた。

「どうしてここに」
「もしかしたら、ちゃんが来るかなと思って、待ってたのよ」
「待ってたって……」
 来る当てもない私を?
 その意図が読めない行動に私は首を傾げた。確かに昨日、この場所で私は拒絶されたはずなのに、何の用があるというのだろう。

「眉が寄ってるよ」
 そう言うと、昨日と同じように彼は私の前に回りこんで、腰を下ろした。朝日をバックにした彼に私は目を細める。
「何で?待ってたって言っても、何で待つの?」
 私が心底不思議に思うままをぶつけると、途端に彼は顎に手を当てて、うーん、とかそうだねーとか、唸り始めてしまった。その表情には唸るに足りる、苦渋の色が浮かんでいた。視線も色々飛んでいる。そしてそれが私に合わさることはなくて、ほっとしていた。

 正直、彼と顔を合わすのは辛い。

 いわゆる昨日の晩のことはふられた、という形だろう、私はまともに話もできないと思った。
 私は後ずさるように立ち上がると、振り返り、歩き始めた。
「ちょ、ちょっとちゃん!」
 慌てたような声を出すレイヴンにそのまま腕を掴まれた。驚いて振り向くと、彼こそ、眉を寄せてすごく焦ったような顔をしていた。
「何?私……正直今レイヴンの顔あんまり見たくないんだけど」
「そうっそれ……それなんだけどさ……」
 歯切れが悪い。私は歩みを止めて、再び彼の方に身体も向き直った。何を言われるのか全く予想がつかなかった。また帰るように、と説得なのだろうか。

「俺と、暮らさない?」

 言葉の意味はすぐに理解ができた。
 なぜそんな言葉が彼の口から出てくるのか、それにはとても理解が足りない。

「え?何で……え?どういう?え?」
 混乱している私は頭に手を当てた。レイヴンは私の二の腕の当たりを掴んでいたままで、そしてぐっと私のことを自分に寄せた。
「あの、そのままの意味なんだけど、ちょっと俺もどうしてそう言っちゃったのかよくわかんない」
 耳に唇が触れそうな距離でそう囁かれて、ますます私の頭は混乱をきたした。思考がついていこうとしていない。何を言われているか、それがどういう意図の言葉なのか、よく分からなくなってきていた。
「わかんないのは、こっちだよ……」
 彼の胸は熱かった。昨日と同じようにおでこを押し付けると、やっぱり日向のような匂いがした。ああ、どうしようもなく、心を掴まれている。そう自覚できる匂いだった。
「だからね……帰るなってことだよ。ああ言った手前、すぐに否定してかっこ悪いんだけど俺様」
 言葉こそ、いつものおどけた物言いだけれど、声のトーンは普段よりずっと低くて、あのシュヴァーンとして現れたときのような声で、私はどうしたら良いのか分からなかった。
 分からないなりに、抱きしめられる腕が熱いとか、声がちょっと震えてるとか、そういうことだけを感じ取っていた。
「わかんないよ……どういうことなの……」
「まだ言わせる気ぃ?」
 レイヴンの声が少し笑いを滲ませて言った。私はおでこをぐりぐりと動かす。「痛い痛い」

 私の耳がびくりと動いた。
 レイヴンがそうっと囁くように声を吹き込んだからだ。

「お前が好きなんだよ」



















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