震える月 (2)











 ミョルゾでの宿は今は使われていないという民家を借りて取っている。自由で開放的な民族性のせいか、大きく部屋が取ってあり、そこにまた大きな寝台が一つあるのを男三人で使うという何とも休まれそうに無い寝室であった。
 女性陣には村長が部屋を提供してくれるということで別の建物で休んでいる。そのことが今日程助かったと思ったことはない、とレイヴンは思った。同じ続きの間でなんて休まれないだろう。
 レイヴンが物音を立てぬよう、男性陣の寝室に戻ったのは、と別れてからまた小一時間程経過していた。があれからまっすぐに部屋へ戻ったのは目視していた。それを見届け、彼自身も頭を心を冷やしてから寝台に入ろうとした訳だ。

 そっと布団に入り込もうとすると、隣で寝ていたはずのユーリがくるりとあお向けて、顔をこちらへ向けた。
「なっ、何だ青年、起きてたの」
「……と何かあったのか?」
「えっ」

 ユーリは肘を枕にして小さく言った。レイヴンは今まさに布団へ入ろうとした手を引っ込めて、大きく溜息をつくと、寝台の端へ腰掛けた。急に疲れたように、声も漏らす。

「……引き止めちゃいけねぇって分かってるんだわ。なのに、一瞬手が言うことを聞かなかった」
「は?」

 横になっていたユーリは自らの身体を起こした。更に隣で寝入っているカロルを起こさぬよう、少しゆっくりと壁に上半身を預けるようにして座りなおすと、レイヴンに掌を向けた。先を促すという意味らしい。それを横目に見ていたレイヴンは苦笑いのような眉を下げきった表情をした。

「大将の研究資料にあったんだよ。”転送装置”とやらについてのレポートがな。ざっと調べたところ、ザウデの地下に作らせたみたいだ。……どうもがこちらへやってきたのもその装置の誤作動か試運転か分からないけれど実験の一環だったっぽい。まさか奴さんも人間がくると思ってはなかったみたいだがな」
 トーンを抑えた低い声で早口でそれだけ捲くし立てるとレイヴンは大きく息をついた。隣ではユーリが口を引き縛り、まさに驚きの表情をして腕を組んでいた。
 大きく開いている窓からは先ほどと同じように月の柔らかな光が舞い込んできている。レイヴンはもはや独り言のように言った。
「この月も、そして太陽も、の世界にもある。同じ世界のようで、全く違う世界。空に浮かんでる、星たちのひとつがあの子の世界なんだってさ。信じられるかい?青年」
「それは……?」
「大将のこのレポートだよ。筆者はあのエルメス。全く、稀代の天才研究者は常人の予想もしなかったことを考えるもんだな……」

 物音ひとつしない寝室。ただ静かに何の感情の色も思わせないレイヴンの声が響いた。

「リタに頼めばすぐ動かせるだろう。……お別れなんだよ、もう」
「!!」

 ユーリは口元を覆っていた手を離すと、すぐにレイヴンの襟元につかみかかった。突然のことながら、それを受け止めたレイヴンはかろうじて倒れはしなかったけれども、寝台が大きく軋む音がする。
「あんたはそれでいいのかよ。の気持ちだって、確認したのかよ!?」
「青年、カロルが起きるよ」
 燃えるような紺碧の瞳がうつむく翡翠の瞳を射るように刺していた。当人同士はそのまましばらく睨みあっていたが、ふっとユーリは手の力を緩めた。
「バカだぜ、おっさん。アンタは大馬鹿だ」
 何度目かになる大きな溜息。それを漏らしたレイヴンはそんなことにも気付いていないだろう。小さく小さく呟いた。
「本当に、バカだ。でも彼女の幸せを奪うなんてできやしないさ」
「それが、本当にの望むことなんなら、な」
 レイヴンは大きく頭を掻き毟った。纏めたところが乱れるのも構わず。そしてそのまま頭を抱えるようにして床に崩れる。
「俺は……」
 深く心に根付いている、忘れる訳もない。
 のうのうと人を愛することができる訳がないと思った。今までも、そしてこれから先も二度とそんな存在は出てこないと信じきっていた。ましてや自分を必要とする人間がいるだなんて、考えることすらなかった。
 なのに、空っぽだった心の中には浮かぶ顔が一つだけじゃない。ユーリ、エステル、リタ、カロル、ジュディス……そして自分が泣かせてしまったあの顔が蘇る。レイヴンは唇を強く噛んだ。
 言ってやればよかったのだ。
 彼女の望む言葉ならすぐに与えてやれる。

 恋愛ごっこならたくさんした。相手の女性の方もそのつもりだったとレイヴンは思うし、その場の空気を楽しんだ。それだけの関係で十分だったし、それ以上を望もうとすら考えてなかった。
 いつだったか飲み屋の女に言われた言葉が蘇る。
『いつか、本気であんたを好いてくれる女に出会えるといいね』
 がぼそりと漏らした告白。その場限りの言葉が言えなくて、レイヴンは感じるはずのない、心臓が捩れるような痛みを覚えた。その瞬間、その声がやはり耳の奥で聞こえた気がした。
 喉の奥底がぎゅうっと潰されたように何も言えなくなり、だがそのおかげで冷静になれた、とレイヴンは思っていた。

「俺の気持ちだけで、あの子を留めていい訳、ないだろう」
「そうやって言い聞かせて、自分で言い訳してんのか。いい歳して何ぬかしてやがる」

 ユーリは低く一言放った。そうして床に膝を折っているレイヴンの正面に腰を下ろした。

「なあおっさん、あんただって、幸せになっていいんだよ」
 ゆっくりと顔をあげたレイヴンは驚愕した。あのユーリが、涙こそ零していないが、眉も切れた瞳も、通った鼻筋も、全てぐしゃぐしゃにして、レイヴンをただ見ていた。
「泣くなよ、青年」
「泣くかバカ。バカなおっさんの為に泣いてなんかやるかよ」
 その瞬間、レイヴンの身の内に小さく変化が起こった。
 支えていた喉の奥の異物がするりと吐き出されたように、感じていた。
 自分は幸せになんてなっていいものではない。そんな贅沢をして、誰が浮かばれるだろうか。そう思いつつも凛々の明星―お人よしで強い青年や明るさと元気がとりえの少年、ナイスバディで魅惑的の女性、のんびりしているようでしっかり王位継承者の器が確かな姫、口も悪くて手も早い、けれど優しい少女、そして、異世界からきた、不安でしかたがない、彼女。皆といると駄目だと思うのに楽しくて仕方がなかった。
 一度は裏切った自分を、皆が許して、そして受け入れてくれていた。それだけで容量以上の幸せを甘受していると思っていた。これ以上望んだら罰が当たる。

「バカのおっさんとまとめて幸せになればいいんだ」
 そう言うユーリの声が少し上擦っていて、レイヴンは細く息を漏らした。

「すまないね、ありがとう」
「もう二度と言わない」
「ああ……」

 一度だけでも言ってもらえたら御の字だ。
 レイヴンは心の中だけでそう呟いて、ようやく少し笑った。
(罰はあの世で受けるよ。彼女まで巻き込んじゃ、余計、だめだよな)

 洪水のように、自分の中で激しく渦巻く感情に気付いた。
 手を放せばもう永遠に掴めないその存在。もう一度掴みにいかねばならない。
「ありがとう、ユーリ」

 もうユーリは寝台に入りこんで、背中をレイヴンへ向けていた。小さく腕を振るその姿をレイヴンは見て、もう一度、テラスから外へと出た。
 身体中に降り注ぐ柔らかな月の光にすら応援されているように感じる。その小さな感情の変化に自分で可笑しくなって彼は笑った。



















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