君への想いの行方 (7) 帰ると早速調理を始めた。手を洗って、うがいをして、狭い台所に二人で立つ。そのごく普通のことを赤城くんのアパートでするのは何となく嬉しくて、それから気恥ずかしかった。まるでおままごとをしているような、そんな気になる。自然と笑いが込み上げてくる。 「何笑ってるの?」 「え?ううん、何でもない……。キレイにしてるよねー」 「君が来るんだから、一応掃除したよ。いつもはもうちょっと汚いかも」 「ほんと?」 やっぱり、無性に可笑しくなってきてしまう。手元に集中しようと、野菜を洗い始めた。 「意外と手馴れてるんだな」 「意外とって何よ……。普通だよ。それなり」 「そうなの?」 「そうなの」 たまねぎの皮を剥いていたらそう言われた。どちらかというと手馴れているほうではない私の手付きは、ボロが出ないように必死だと思う。逆に私は彼の手元を覗き込んだ。じゃがいもの皮をピーラーで剥くその手付きはどこかぎこちなかった。 「赤城くんこそ、手順知ってるんだ?」 「カレーくらいなら、まあ、何とか。ボーイスカウトとか子供会とかでも作らされただろ?」 「あ、合宿とかでは定番だもんね。……赤城くん、ボーイスカウトやってたんだ。何か似合う……」 私は思わず今の彼の顔にボーイスカウトの制服を重ねてつい声が笑ってしまう。むっとしたような表情を作って彼は私の肩を自分の肩でこづいた。 「何で笑うんだよ。兄貴がやってたから、自動的にやってたんだよ」 「いや、悪くなんかないからね!逆に似合うな、と、思って」 彼の今までのことを、もっと知りたいと思う。 子供のときの思い出、小さいときの夢でもいい、彼を形成してきたものをもっともっと私も共有したかった。 カレーができあがって、おかわりもしてしまった。明らかに食べ過ぎで、苦しい。お皿をなんとか片付けると、私は赤城くんのベッドにもたれて床に腰を下ろす。お腹も心も満たされていた。 「二人で作るとおいしいね」 「うん、いっぱいできちゃったな。……また明日も食べに来る?」 「あはは、二日目のカレーはもっとおいしいもんね!あ、それより、さっきの話」 はっと思い出して、座卓の前に私は座りなおした。そんな私を見て、赤城くんも、ああ、と小さく頷いた。 「アルバム見たいんだっけ。小さいときのは実家にしかないよ?高校のときのはあるけど」 「それでいいよ!見たい見たい!」 私の返事に赤城くんは小さく「別に何も面白くなくて悪いけど」と本棚の一番下の段から真四角の卒業アルバムを取り出した。カバーには「HABATAKI」と金押しされている。私はそれを受け取ると、わくわくする気持ちを抑えて、丁寧に開いた。 クラスの紹介のところでは一番最初の左上に今と変わることのない彼がすこし微笑んで写っていた。それはそうか、ちょっと前の彼だ。全体写真の真ん中の方で楽しそうに笑っている彼も今と同じ。 「今と同じだね」 「そりゃそうだろ。せいぜい撮ったのも半年ぐらい前のことだし」 「ふうん」 ふと並ぶ同じクラスメイトの写真の中に、見覚えのある女の子を見つけた。 ぱっと目を惹く美人で、写真だと少し冷たい印象を受ける。記憶の中ではおぼろげになってはいるが、他の女の子をざっと見てもやはりこの子に違いない、と思う。 あのライブの日に会った女の子。その後わざわざ羽学まで来てくれた、彼女だと思う。 当時は随分嫉妬をして嫌な思いもしたけれど、改めて会うことがあれば謝りたいとさえ思っていた。 「ねえ、この子……」 私が写真を指差して尋ねると、赤城くんも横から覗き込んできて、得たり顔をする。私はそれを横目で見てわざと顔を逸らした。 「そうだよ。君がヤキモチ、妬いた子」 「もうっ。わざわざ言わなくてもいいのに!」 私が手でグーを作って軽く赤城くんの肩を叩くと、彼は何故か嬉しそうに笑った。私もつい噴き出してしまう。そのままグーの手を伸ばして、またアルバムに触れた。 「もし会えたら、私、謝りたいな……何かあのとき申し訳ないことしちゃったよね。せっかく羽学まで来てくれたのに」 「ホントだぜ?彼女――佐藤っていうんだけど、嫌がってたから説き伏せるのにも大変だったのに、君は逃げちゃうし」 「うん、ごめんなさい」 私は写真の中でじっとしている佐藤さんに向けて小さく呟く。正直、高校生活を赤城くんと過ごせているというだけで私にとっては嫉妬の対象になってしまうのだけれど、過ぎたことを言ってもしょうがない。 「いや、別に今思えばあれも君のカワイイところだってことなんだろうけどさ」 急にさらりと彼の口をついた言葉に私は驚く。 かわいい、だとか。急に、ちょっと調子が狂う。 「…………どうしたの赤城くん。何かいつもと違う?」 隣の彼の顔を覗き込むと、今更言ったセリフに照れたのか、俄かに慌て始めた。鼻の頭をちょこちょことかいて、彼は言う。 「え?そう、かな。あ、そうそう。佐藤は一流大だよ。経済学部」 「えっ……そう、だったんだ」 もう一度彼女の、佐藤さんの写真に目を落とす。 そこで、ふと思い出した。 夕方出会った女の子。一流大学だと言っていた。 なんとなくアルバムをめくりながら、似ている顔を探す。けれども、8クラス見終わったところで、写真は部活動の様子を写すページになっていた。私は何の色なのか分からないような溜息を吐く。 「誰か、知ってる奴でもいた?」 「ううん、ちょっと探してただけ。もしかして、と思ったけど違ったみたい」 「何だよ、男?」 そのむすくれたような言い方に思わず笑ってしまう。 「違うよー、女の子。今日たまたま帰り道で会って、一流大の人だって言ってたし同い年?みたいだったしもしかしてーと思ったけどね。やっぱり大学は広いね」 「ふうん、なんていう子?女の子は化粧すると変わったりするからなぁ」 「うん、そうかも。名前は聞いてないけど……こんな髪の毛巻いてる感じで、可愛かった」 ふと、視界に入る赤城くんの手が不自然に揺れた。不思議に思って横にある顔を見てみると、視線は斜め上を向いて、うーん、と唸り始めていた。 「今日、会ったんだよね?バイトの帰り?」 「うん、そう」 「その子、もしかしたら、僕の知ってる子かもしれない」 「へー」 何となく、胸騒ぎがした。 かちりかちりと音を立てて、パズルが合わさってゆくような、その感覚。 髪型と雰囲気を伝えると、やっぱり赤城くんは頷く。私の出会ったその子と彼の知ってるその子は同一人物のようだ。 「僕もスーパーに行く前に会ったから」 「赤城くんも?……そうなんだ」 「うん、家があの辺だって言ってた」 彼女の妙に挑戦的な瞳を思い出す。なるほど。今思い出してみればそうだったのか、とすごく合点がいった。 「その子、もしかして赤城くんのこと好きなんじゃないの?」 「……」 彼が、沈黙した。 咄嗟に私の頭の中には、『目は口ほどに物を言う』の諺が浮かび上がる。 彼の目はするりと私の視線から逃れ、手元に降りていた。 いつもは真っ直ぐに人の目を見つめる赤城くんだけに、その仕草を見てどうしても、もやもやと重苦しい想いが喉の奥から迫りあがってくる。 「そう、なんだ?」 「いや、別にそんな本当に告白されたとか、そういう訳じゃないんだ」 「じゃあどういう訳なの?」 知らず、語尾が強くなってしまう。わざとじゃない。別に怒っていないのに。私は彼の態度にこそ苛ついていたけれど、彼女が例え赤城くんを好きでも、どうにかなると思っている訳じゃなかった。なのに口から出る言葉の響きは、まるで詰問しているように、聞こえる。 赤城くんはがしがしっとその頭をかきまぜ、長く息を吐く。 「どういう訳も何も無いよ。本当に」 まるで、浮気を追及しているようだ。 その子との間に何かあるだとか疑っている訳ではない。なのに、黒く溢れる胸の奥が焼け付くような気持ちが、消えてはくれない。 「……佐藤の、友達だって、紹介された。それだけだよ、本当に」 俯きながらそう言う赤城くんを見つめた。 その横顔はいつもの通り、キレイに整って見える。 「やっぱり……モテるんだね。赤城くんって」 「僕が?別にモテてなんかいないよ」 「嘘。だってその子、赤城くんのこと好きなんでしょう?」 「でも、本当に彼女自身から聞いた訳じゃないし」 「ふうん」 自分でも、感じが悪い切り返しだと、気付いていた。赤城くんもきっとそう思ったのだろう。逸らしていた顔を私に向けると、今度は彼も強い口調で言った。 「そういう君だって。佐伯のやつと随分仲が良いんだよな」 「佐伯くん?何で佐伯くんがここで出てくるの?」 突然出てきた名前に私は少し動揺した。 後ろめたいことは何も無い。無いのに、その私の動揺は簡単に赤城くんには悟られてしまったようだ。座卓の上で、彼の長い指が、とんとん、と二度、動くのを見る。 さっきまでのゆったりと、落ち着くような雰囲気はすっかりと消えてしまって、何故だか今はとても、寒々しい。 「今に始まったことじゃないだろ。高校のときから、君と佐伯は仲が良かったんだろ?」 「それは、そうだけど……それこそ、今そんなこと言われたって」 何故かバツの悪い気持ちになる。続きの言葉が出てこない私に、彼はそのまま淡々と続けた。 「初めから思ってたんだ。君のほうはともかく、彼は君に気が合ったんじゃないかって」 突然そんな言葉が赤城くんから出てくるのを私は不思議な気持ちで見つめた。 初めから? 佐伯くんが私を? 何故、こういう話題の方向に転じたのかさっぱり訳が分からない。私は赤城くんと少しの間見つめあった。でも、いつもの空気ではないことに胸の浅い部分が息苦しく感じる。 「そんなことないよ。私だって、それ佐伯くんに聞いたことなんて無いし」 「へえ。ちょっと見てたら分かるけどな」 「分かるって、佐伯くんがってこと?無いってば」 思わず語気が強まる。 「君と佐伯とご飯を食べたとき」 相対的に赤城くんは静かに話し始めた。 大学に入ってすぐのときのことだ。 「覚えてる?君と付き合い始めたって言ったときの」 「うん……でも別に何も変なところは……」 あの日の佐伯くんのことを思い出してみる。私は、二人が知り合いだったことが意外でそのことに気を取られていたような気がする。そうしてご飯を食べて、佐伯くんはマスターのところへ行くから、と先に帰った。 「佐伯はちょっと不自然に先に帰ったと思わないか?」 「そう……かな……」 私がそう返すと、赤城くんは深く息を吐いた。俯き、髪を両手でかきまぜ、また深く息を吐く。 「こんなことが言いたい訳じゃないんだ」 そう言ったきり、彼は顔を上げなかった。私も何も言えない。言うことが思い当たらなかった。 しばらく沈黙が続き、時計の秒針だけが規則正しく動く音が響く。同時に、時間の存在を思い出した。 本当は、友達の家に泊まると言って家を出てきていた。初めてこういう嘘を親に吐いたのに。でも、今日はこのまま楽しい雰囲気には戻りそうも無い。私の心の中も色んなものが渦を巻くように溶け合っていて、喉の奥が重く感じる。それらが全て嫌な感情だということは分かっていた。 「……私、帰るね」 そう言って立ち上がると、赤城くんは慌てたように顔をあげた。 「ちょっと待って、帰るの?」 私は黙って頷く。ベッドの脇に置いていたカバンを手に取ると、まっすぐに玄関に向かった。その腕をちょっと強引に赤城くんが取った。 「ごめん、もうちょっと話そうよ」 でも私は首を横に振った。 さっきは喉の奥が重たかったけれども、今は胃が重いと感じる。こんな気持ちでまた話したりすれば、きっと私はもっと酷いことを言ってしまうと思った。きっと赤城くんも同じ気持ちだろう、と思う。それでも一瞬引き止めてくれたことは嬉しかった。 「ううん、今日は、やっぱり帰る」 「そうか……じゃあバス停まで送るよ」 「いい。まだ人気ない訳じゃないし」 「でも」 早く一人になって、頭と、心を静めたかった。私はかぶりを振って赤城くんの前に両手を突っ張るように出す。 「いいの。頭冷やしながら帰るから」 そのまま玄関へ向かうと、後ろで赤城くんはまた大きく息を吐いていた。 続き→ |