嫉妬と恐れ (1)
ロザリーの訃報を聞いた、イムルで宿を取らなかった面々はさすがに衝撃を隠しきれないようであった。 アリーナは気丈にも涙こそ見せなかったものの、唇の色が変わるほど強く噛み締めていた。 ミネアはいくらか予感していたのだろうか、暗い表情のまま、姉やエッダらを気遣う素振りを見せていた。 トルネコは落ち着いた様子で、静かに手を合わせる。 ライアンはいつもの仏頂面を少し歪め、目を閉じ、その死を悼んでいるようであった。 そんな彼らの思い全てを乗せて、気球は飛び立つ。 リバーサイドの道具屋の主人の作ったこの気球は、とても大型のもので、パトリシアも馬車もすっかり乗って浮かぶ余裕があった。 操縦は簡単なようで、実のところ風を使うのでコツがいるらしく、そういうのに長けているトルネコの役目だ。 しっかりとしたゴンドラ部分の手すりに寄りかかり、エッダは外を眺めていた。 こんなに空は澄んでいるのに、木々は青々と美しいのに、この世界では何かが狂い始めている。 胸いっぱいに空気を吸うと、エッダは深く呼吸を整えた。いつまでも彼女のことばかり考えるなんて、きっと良い方向にはいかない。 そう思ったときだった。 遠くに緑色の山が見える、と思っていたのが近づいてみればみるほど、一本の巨大な樹だということが分かり、エッダは目を丸くした。 世界にはこんな樹もあるのだ、と何だか感心せずにはいられない。 この旅に出るまで、山奥の小さな村の中しか知らなかったエッダには、今まで見たことも聞いたこともないものが沢山あった。 海だって初めて見たときはその広さ、動き、音、全てに驚き、感動したものだ。 だが、今回のこの巨木は今までどこに行っても見たことは無かった。 それは決して世間知らずという訳では無いライアンやブライも感嘆の声を漏らす程なのだから、きっと世にもめずらしいものなのだろう、とエッダは思った。 気球でその側を通ったとき、樹をよく見てみれば、いたるところに手を伸ばし、それらがぐるぐると周囲を回るかのように枝が伸びている。それらが人一人が十分に歩けるような太さであることに、また皆驚く。 「あ、あれ!!」 それまでめずらしく、ちっともはしゃいでいなかったアリーナのあげた声の示す方を見てみれば、今度は誰もが声をあげた。 そこには、白い衣服に身を包んだ、人間が横たわっていたのだから。 その人物、いや人物と言ってよいのか分からない、とエッダはよくよく目を凝らす。 それは何故かというと、その人間らしき姿形には似つかわしくない、大きな翼がその背中には生えており、それが作り物ではなさそうに所々に血を流しているのを確認したからである。 「何、あれ」 エッダは誰に言うともなしに言う。 皆それには答えられず、黙っていると、トルネコは巨木から少し離れた平地へ気球を下ろした。 巨木に気を取られていて気づくのが遅れたが、樹の根元付近には小さな集落があった。 住民は皆エルフや動物たちで、その住民たちの間で噂になっているのが、天から聞こえる助けを求める女の声、というものだった。 エッダはすぐにあの翼の生えた人物だろうと言うと、あるエルフがそれは天空人だということを教えてくれた。そして、その翼があるのに助けがいると言うことは、大方翼が折れてしまったのではないかということも。 こうして、一同は早速その天空人を助けに向かうことにした。 気球で樹に近づくと、細い枝や葉に阻まれて思った以上に近づけないことから、地道に樹を登りつめていかねばならない。 そうなると、いくら太い幹や枝が丈夫だとは言え、皆が登って枝が耐え得るかなどは見当もつかない。 全員、集落でただ一つの宿で誰が、どう登るべきかと言うことを話し合っていた。 「アリーナは…」 エッダはそう言ってすぐに口をつぐんだ。今日一日だけ落ちこまさせてくれ、とクリフトに打ち明けたそうで、エッダに向かってクリフトは申し訳無さそうな、そんなような表情をしたからだ。いつもならば、木登りなんて楽しそうだと一番乗り気で登っていきそうなものであるが、流石に今日だけはそんな元気も無いようで。 当の本人は気分が悪いということで、早々に部屋で休んでいたのだ。 それが何日も続くようであるなら困ることだが、今日一日だけ、だとクリフトに言ったというので、エッダはそれを許諾していた。 アリーナが一番、ロザリーの心配をしていたのかもしれないな、とエッダは思う。 それでなくても繊細な女の子だから、今日だけはそれも仕方が無いかもしれない。 ただ、その天空人の救助だって、放っておけばどうなることか分からない。 集落の住民が言うには、樹の上には魔物たちが住み着いているらしいし、もしかしたら弱っているところを殺されてしまうことだってあるかもしれない。 これも後回しにはできない理由だ。 さて、残りのメンバーを見渡し、エッダは考えた。 トルネコは申し訳ないけれど、登ることなんてできそうにはない。 ブライだって、お年寄りだし、率先して登ってもらう訳にはいかないだろう。 ライアンも大きな鎧をがしゃがしゃ言わせて且つ魔物とスムーズに戦うことができるだろうか? ミネアは自ら宿で待つことを希望していた。高いところは苦手らしい。 結局、身軽に動くことができるエッダとマーニャそしてクリフトの3人で登り始めることにした。 真下から見上げると、広く伸びた枝や、隙間無く茂る眩しい緑の葉のせいで、空を拝むことはかなわなかった。 空から見たときも思ったが、やはり巨大で、その大きさといったら、エッダがこれまで見てきたお城のようであると思うほどだ。 地元の者はこの木を世界樹と呼ぶというのも頷ける。その名に相応しい程、葉もつやつやとしていて太陽の光を受けて気持ちよく張り付いている。 そして、その樹木の内部の洞は案外と簡単に登っていくことができたが、やはり外側の枝が張り詰めたところは、この面々でよかったと思わせられる、そんな危なっかしい足場であった。 その上で魔物は大体が空を飛ぶことの出来る者ばかりで、戦闘は苦戦を重ねていた。 「呪文中心のほうが良さそうね…!」 エッダが二人に言いながらまるで螺旋階段のようにぐるりとうねる枝を登っていたそのときだった。 生い茂る枝葉の隙間に、先ほどの白い翼が見えた。慌ててエッダは声をかける。 「大丈夫なの?!」 近づくと、やはり弱っているようで、その女性―少女と言ったほうがいいぐらいの顔立ちのその天空人はゆっくりと顔だけを起こし、こちらと目を合わせた。 「よかった」 彼女はそう言うと、弱弱しく微笑んでみせた。しかし、すぐに痛みを堪える表情になり、涙すら浮かべた。 すぐにクリフトが駆け寄り、呪文を唱えるために印を切り始める。 翼の根元から背中の方にかけて血が流れ出ていたようだ。それは既に固まってしまって、流れは止まっているものの、純白の翼と同じく白い衣服のところどころに赤い染みが広がっている。 クリフトの手から温かい光が漏れ、徐々に開いていた傷は塞がっていく。それをエッダとマーニャは少し離れて見守っていた。 「どうしたんです?この傷は…」 クリフトが少女に聞いた。既に治癒は終え、その優しい光が彼女の翼の付け根辺りに少しだけ付きまとうように残っている。 少女は恐る恐る翼を動かしながら、そして次は安堵した顔に戻り、クリフトのほうを向きなおった。 「ありがとうございます。魔物に襲われて、翼をこの通りやられてしまってどうしようもなくって…。 あなたは命の恩人です!勇者さま!」 少女は強く頷きながら、その勢いに戸惑ったままのクリフトの手をつかみ、涙すら浮かべた瞳で、じっとクリフトを見つめた。 当の見つめられたクリフトはどうして良いものやら分からず、やや腰もひけている。 「あ、あの私は…」 「勇者さま!私をどうぞ天空の城までお連れくださいませ!!」 少女はクリフトの言葉を遮り、一気にまくし立てた。 そうなのだ。少女はクリフトを勇者だと思い込んでいるようで、その瞳には既に尊敬と親愛の色が浮かんでいた。 「勇者さまがこんなに素敵なお方とは…。私、とっても感激です」 まるで一目で恋する相手に出会ったかのように、ルーシアは頬を赤らめてクリフトを見つめ続けていた。クリフトは明らかに困った、どうしよう、と言った表情で、エッダとマーニャの方を見る。 その一連の様子を一歩引いて眺めていたマーニャはついに吹き出した。 突然そうして笑い始めた派手な身なりの女の存在に、少女はクリフトの手を握ったまま、顔だけを訝しげにマーニャへ向ける。 「…何でしょうか?」 「ひー……いやいや。何でもないのよ。お嬢さん。勇者さま、どうします?」 マーニャは目尻にたまった涙を拭いながら、クリフトへ向けて言った。そのマーニャの表情は悪戯っこのそれと同じで、クリフトは僅かに眉を歪める。 その一方で、エッダはその様子を見ながら、胸の中がざわりと音を立ててかき回されるような気持ちになっていた。 この気持ちは、何というのだろうか。 苦しいような、腹立たしいような、気分の悪くなるような明らかに負の感情。 「私はルーシアと申します。勇者さま、どうぞよろしくお願いします」 少女はルーシアと名乗ると、マーニャの方には完全に背を向け、クリフトへ向かって微笑み、頭を深々と下げた。 益々もってクリフトはうろたえる。 握られた手を丁重に断って離すと、その手を左右に大きく振った。 「あの、私は違います!その、そちらの女性が…エッダさんと仰る、勇者さまですから」 そうクリフトは遠慮がちに言うと、エッダの方をその手で示した。ルーシアは勢いよく振り向き、その美しい亜麻色の髪を風になびかせると、エッダを改めて見やった。 「勇者、さま?あなたが。すみません。てっきりこちらの男性かと」 まじまじとエッダを見つめた後、ルーシアはまた丁寧に頭を下げた。慌ててエッダもそれに倣う。 心中は決して穏やかではない。ただ反射的に会釈しただけだが、エッダはちっともルーシアの第一印象に良いものを抱いてはいなかった。 「いいの。ルーシア、でいいよね。もう大丈夫なら下に降りましょうか」 エッダはなるべく冷たい印象にならないように、でも淡々とルーシアに言った。 しかし、ルーシアはそんなエッダの気持ちにはまったく気づかぬようで、晴れやかに笑みを湛えながら、口を開く。 「お待ち下さい。この先に、天空の剣を私、見たんです。勇者さま、持って帰らなきゃいけませんわ!」 そう言い終えると、ルーシアはすぐ隣にいたクリフトの腕を引いて、器用に細い枝の上をひょこひょこと歩き渡って行った。 思わずマーニャはエッダの顔を覗き込んで、言う。 「アンタ、大丈夫?」 エッダは慌ててマーニャの目に自分のそれを合わせた。 「な、なにが?」 表情に出ていたのだろうか。エッダは内心冷や汗ものでマーニャの瞳の中の自分を見た。そんな、自分でも分かり難いモヤモヤとした負の感情は、きっと人の目から見れば嫌らしく見えるだろう、とエッダはマーニャからその目を逸らす。 マーニャの視線はいつでも真っ直ぐで、こういうときには見つめていられなくなるな、とエッダは思う。 すると、そんなエッダの気持ちを見透かすようにマーニャのその瞳がわずかに柔らかく、揺らいだ。 「まぁ、大丈夫よね」 そう言い残すと、マーニャはクリフトらの後を追っていった。 エッダも慌ててその後ろについて行く。相変わらず自分には持て余しそうな、嫉妬という気持ちを持ちながら。 |