恋人の夢 

あの船旅の日から、エッダが身体を壊すことはなかった。 努めて元気に振舞っていたし、事実、身体の調子にはそれまで以上に気を配っていた。 何より変わったことは、必要以上の無理をしなくなったことだった。 それまでのエッダは焦る気持ちが周囲に分かる程、多少身体の不調を押してでもことある問題を片付けようとしていた。 だが、少し調子が悪いようだと感じたときは素直に馬車に下がるようなこともあったのだ。 エッダは気づいたのだった。自分一人で急いて走っても無益なだけだということに。 かのパノンの言葉もエッダの心に強く揺さぶりをかけた。 「世界が笑顔を取り戻すために、この者たちは旅を続けてゆくのです」 芸人であるパノンはスタンシアラ国王の前では芸を披露することは無かった。 けれども、今天空の武具の一つである兜はエッダの頭上で美しくその中心の宝石を揺らめかせている。 それはパノンが切々と語った言葉により、スタンシアラ王が気持ちよく笑ってくれたからである。 王は言った。 「その言葉を待っていたのだ」 と。 エッダは自分が勇者であるための存在意義を知っている。 『世界を混沌に陥らせる諸悪の根源を倒すこと』だ。 それはつまり、自分の生まれ育った村を破壊するように差し向けた張本人を倒すことなのだということも知っている。 ふと、「もし、その魔王が私を殺そうとしなければ、私は魔王討伐の旅には出なかったのではないか」とエッダは考える。 だが、行き過ぎてしまった人生に『もしも』は無く。 仮にエッダの村が襲われなかったとしても、その内世界が混乱していく中、旅に出ることにはなったのだろう。 だから、エッダはそのことはもう考えないと心に決めた。 ただ世界を敵に回す憎いものを倒すことだけを考えるのだと。 その為には、身体を壊している暇などなかった。 クリフトのことを考える隙間も与えず、エッダはただ毎日の身体の鍛錬に余念がなかった。 毎日、宿に着くと、余裕があるときには部屋を出て走りに行く姿も見せた。 雨の日は室内でひたすら基礎体操を始めた。 そうしてくたくたに身体を疲れさせてから眠りにつく。 夢は、見ることは無かった。 そんなエッダであったが、イムルの村に着き、いつものように宿へ宿泊手続きを済ませた後、身体を動かそうとしたが、 めずらしく何もする気にはなれなかった。 のろのろと自分にあてがわれた部屋へ向かい、荷物を降ろし、汗を流すのに湯に浸かると、その緩やかな温かさに全身の疲れが流れ出るようだった。 エッダは小さな湯船に浸かりながら、睡魔の誘惑に身をゆだねた。 エッダは寝台の上で目が覚めた。 いつのまにか、自分で移動したのだろうか。 確か、湯に浸かっていたはずなのに、と考えていると、目の前に暗い闇に紛れて人が立っていることに気づく。 咄嗟に身構えようとしたが、身体は動かない。 頭は冴えているのに、身体はなぜこんなに重いのかと動揺したところで、ふと気がついた。 これは、夢だ、と。 なぜなら、視界に入る、自分のものらしき裸体は見慣れぬ女性のものだった。 何より、自分はこんなに髪の毛は長くない。肩を、腕をすべる髪は薔薇を思わせる、質感の良い紅色をしている。 部屋には今身体を置いている寝台の枕元に弱い灯りがあるだけで、すぐ目の前は闇なのだ。 そして目の前の暗がりにいる人物にも見覚えはない。その人物は男で、一度見たら忘れるはずの無い程美しい顔をしている。 表情は読めないが、優しい目の光だ。 そうなるとエッダは客観的にこの事態を見守ることに決めた。 ”自分”の横になっている寝台は柱に小洒落た細工が施してあり、一目で高価なことが分かる。 このような寝台はやはり寝心地も違うものだ、と思ったところで、この女性の感覚はエッダの感覚でもあると気づいた。 そこで”自分”が口を開いた。もちろんエッダの発言でも、声でもない。 「行かないで…」 その声は鈴の音のように澄んだ響きで音を並べた。 そして”自分”は動いた。 すがりつくようにその男の腕を抱き締める。 ああ、恋人同士の別れなのか、とエッダは思い、ぎゅうっと心の奥が締め付けられる気がした。 「ロザリー」 彼は”自分”の名を読んだ。 子供に言い聞かせるように優しい抑揚。低い音が心地よい。 エッダはロザリーと呼ばれた女性の気持ちと同調しているのか、その呼びかけに胸が震える感覚を知った。 いや、前も感じたことがあったかもしれない。 クリフトの話し方に似てるのかもしれない。とエッダは思い、また胸は痛んだ。 それを和らげるように、男は優しくロザリーを抱き締めた。ロザリーはしがみつく様に彼の背中へと手を回し直す。 その抱かれた優しさにエッダの胸は余計に痛んだ。 とても優しく、どこも痛くは無い。クリフトに抱き締められたときは、腕も、肩も痛かった。 ただ、今は胸が痛い、とエッダは涙が頬を伝うのを感じた。 いや、こぼれたのはルビーで、驚くエッダの見ている前でそのルビーは男の肩に当たり、砕け散った。 泣いていたのはロザリーだ。また一つ、ルビーが男の肩で儚く消えた。 「ロザリー、どうして泣くのだ。お前を泣かせないために、俺は行くのだぞ」 「私を泣かせたくないとおっしゃるなら、私の側を離れないで…」 今にも消え入りそうな声でロザリーは言う。 男は壊れ物を扱うようにとても丁重にロザリーをそっと寝台へ寝かせた。 「ならば、お前が寝付くまで、側にいることにしよう」 優しい瞳だが、表情は冷たかった。眉は強張ったまま眉間には皺がよっているし、口元は甘い言葉とは裏腹ににこりともしない。 ただ、冷たいけれども、恐ろしく美しい顔立ちだった。 涙がルビーに変わる女も、この美しい男も人間では無いのだろうとエッダは感じた。 二人の醸し出す雰囲気は人間とは言い難い、違う空気を感じる。エルフと…魔族なのだろうとエッダは気づく。 男はロザリーに口づけた。 冷たい表情のままの口づけはとても熱かった。 表面の冷たい美しさで隠してはいるけれど、この男の内側は激しく燃え盛っているのだ。 エッダはまた涙がこぼれていくのを感じる。 それはルビーとなって男の手に触れたとき、パラパラと崩れ去る。 その様子を見て男は忌々しい、と小さく呟き、眉根を一層しかめた。 しかし、その怖い顔とは逆に、ずっと男はロザリーの頭をいとおしそうになでていた。 そしてロザリーの瞳が閉じたまま規則的に息が出ては入るのを見届けるとそっと部屋を後にした。 扉が閉まるとロザリーはすぐに身体を起こし、寝台から降りる。 追いかけるのかとエッダは思ったが、ロザリーは扉とは逆に、部屋に唯一ある小さな窓の方へ向かった。 そして窓際に近づくと、そっと分厚いカーテンを開けた。 男が歩き去るのが見える。姿が見えなくなるまでそのまま見ていたが、彼が後ろを振り返ることは無かった。 それでも毎回この女は後姿を見ているのだろう、とエッダは思った。 ロザリーの落胆するような気持ちは感じられなかった。 ただ、彼女は小さな窓辺で涙をこぼした。涙はルビーへと姿を変え、部屋の窓際の床面をほんのり紅くしてゆく。 「誰か、…誰か、ピサロ様を止めて……」 ぱしゃん、という水音にエッダは目が覚めた。 自分の腕が湯船のへりから湯中へと落下した音だった。 「ああ、夢………」 未だ気分は夢から抜け切らず、気づくとエッダの紺碧の瞳からは涙がだらだらとこぼれ落ちていた。 そのまま涙は湯船の中へ泡と一緒に消えていく。 ぬるい湯に浸かりながらエッダはひたすら泣いていた。 何故、泣くのか。 エッダは夢の中の女のことを考える。 あの女は自分の無力さに泣いているのだ。 分かっている。 「私は、何で……」 そこでエッダはびくりと身体を震わせる。 部屋の扉を叩く音が微かに聞こえた。 と、同時にエッダを呼ぶ声も聞こえる。 「エッダ〜?夕食にするわよー。いないの?」 マーニャの声だ。エッダは慌てて湯船から立ち上がり、身体の水分を素早く拭き取り、いつもの服を纏った。 マーニャはエッダの返事も無いので、一応扉を開けた。 「いないの?」 そこへ小さな浴室からエッダが出てきたところだった。マーニャはそれを見て、一つ息を吐いて言う。 「いるんじゃない。返事くらいしなさいよ」 「ごめんなさい。すこし汗を流してたらうっかり寝てしまって…」 「そうね。顔が火照ってるみたい…。アンタ、どうしたの?」 急にマーニャの緋色の瞳がエッダに近づく。鋭い目つきに射られ、エッダの動きが止まった。 「え?どうも…」 「顔、冷やしてから食堂にきなさいね」 やはり泣いていたのがマーニャに分かってしまった。とエッダは俯く。 それもそのはずで、エッダの顔は長湯でのぼせたせいもあったが、瞼が少しだけ重たそうになっていた。 部屋を出て行こうと背をむけたマーニャにエッダは語りかける。 「―夢を、見たの」 マーニャはおもむろに足を止め、エッダの方を向き直り、首を少し傾げた。 その、ミネアと同じく艶やかに流れる藤色の髪を見るとも無しにエッダは続ける。 「エルフと魔族の恋人の夢…。すごく哀しかった」 「そうなの。それで…泣いてたの?」 マーニャにずばりと言い当てられ、またエッダは俯く。それは肯定だった。 「うん、うん。かわいいやつめ!」 途端にマーニャは満面の笑みでエッダの豊かな巻き毛をぐしゃぐしゃと掻き回すように頭を撫で回した。 エッダははにかむようにこの美しい女性を見上げる。また、瞳がぶつかった。 「アンタは感受性が豊かなのね〜。あんまりそんなに何でも心容れるんじゃないわよぅ。…この先生きていくの大変よぅ」 おどけたようにマーニャは言うが、これはエッダより少し長く女性として生きているマーニャの処世術の施しだった。 「そっかな」 小さくエッダは呟くと乱れた髪の毛を整えるように手を入れた。 「そうよ。うちのミネアちゃんがそうよ。あの子も感受性が強いからね〜。色々のめり込んじゃうと、自分に重石がくるからね」 話しながらマーニャはエッダの肩に手を置く。そしてぽんぽんと軽く叩くと部屋を後にしようと扉に向かう。 「さ、ご飯にしよう。エッダも色々あるだろうけど、モノを食べなきゃ始まらないからねえ」 エッダは頷いてマーニャの後を付いて部屋を後にした。 次の日の朝。 食堂に皆が集まり、いつものように食事を始めたが、話題は昨晩の夢のことで持ちきりだった。 もともとそういった噂を宿の主人からは聞いていた。そして、その通り皆漏れなく不思議な夢を見ることができたのだった。 「皆見たの?私だけかと思ったぁ〜。何だ。お父様みたいな夢を見ることが出来たかと思ったのにー」 アリーナは本当に残念そうにそう言った。 それもそうだろう。サントハイム王は予知夢を見ることができた。 その能力があればまたサントハイムが復活することも分かるかもしれない、という期待があったのだろう。 そんな思いを感じたクリフトは沈黙した。ブライは目を細めてただスープをすする。 それに構わずマーニャは口を開く。 「ねえ、エッダが夕方見たって夢も同じだったの?アンタ、そんなようなこと言ってたわね」 突然話を振られ、パンを頬張っていたエッダは飲み込むまで首で同意を示した。 「うん、少し違う場面だったけど。同じエルフと魔族だったわ」 マーニャは「続きモノなのかしら」などと呟き、この夢の美しい主人公たちに思いを馳せているようだ。 エッダはパンが喉の奥につまるような、そんな感覚を覚えながら、流し込むようにコーヒーを飲み込む。 異種族の、恋。 喉に引っ掛かっているのはパンでは無い。 ふと、エッダがクリフトを盗み見ると、彼はアリーナにサラダを取り分けてやっていた。 じっとそれを見ていると、クリフトがその視線に気づいたかのように顔をエッダへ向けた。 すぐにエッダは目をそらし、調子が悪いと言う隣に座るミネアを気遣う素振りを見せる。 もうずっとエッダはクリフトのことは考えないように頭の端で自分に警告を促していた。 だが、今回の恋人同士の夢を見てどうもそれが緩んでいるようだ。 無意識にクリフトを見つめるなんて、その証拠だろう。 エッダはまた頭の端で強く思った。自分への警告を。 ←前へ 次へ→ ピサロザリーです。 この前、うちのクリフトがMっけありと書きましたが、 エッダもあるみたい。 M同士じゃあ、どうなんだー。  








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